2008年01月01日 年の終わりに

今年最後の朝は、青空になった。
朝日に目を醒まし、白い息をはきながらベランダに出て、
川面にキラキラと光る朝日を眺めた。深呼吸を二つほどして、
誰に言うでもなく、”おはよう。”と言ってみた。



2007年も今日で終わる。 今年も何とか生き抜いて、生き残った。

今年も色々な事があった。
楽しかった事、辛かった事、嬉しかった事、哀しかった事、、
色々な事があったけれど、そのお陰で、僕は、
少しだけまた大人になったような気がする。
大人になっていくと言う事は、こう言う事なのかも知れない。

ちょっとほろ苦いけど、哀しみを知る分だけ、
楽しさの大切さを深く知る事ができたし、優しくなる事の意味を知る事ができたと思う。

夢を見ること、

夢を諦めない事、

何があっても、正々堂々と挑み続けること、

静かに笑う事、

優しくなる事、

愛する事、、

生きると言う事は、僕には、とってそういうことなのだろう。

勝ちたい、負けたくないとは、思うけれど、
この年になると努力をしても叶わない事がある事を知った。

どんなに努力をしても叶わない事があっても、
それでも、夢を見続けて、決して諦めず、
努力をし続けると言う事も、彼女から学んだ。

結果も大事だけれど、困難に直面した時に、
何を考え、何をしたかが、もっと大事だと言う、当たり前の事を、彼女から学んだ。

それが、生き様だから。 生き様を残す事が人生だと言う事が、わかったから。

2008年も、彼女から学んだ事を謙虚に受けとめて、
少しでも彼女に近づく事ができるように、一歩一歩、歩いていけたら良いな。

恥かしくない生き様をこの世に残して行く為に。

天敬愛人

みなさん、明けましておめでとうございます。
2008年が、みなさんにとって、意義深い年になりますよに。



08年01月02日 元旦の朝

新年明けましておめでとうございます。
今年も宜しくお願いいたします。


天気予報で聞いてはいたけれど、元旦の朝は、風の強い雨空になった。

大晦日は、友達沢山とウエストサイドのバーを借り切って年越しのパーティをやった。 
食事もなかなか美味しくて、楽しい料理と楽しい酒を堪能した。
カウントダウンをやって、暫くみんなと騒いでいたが、他の友達は、
皆パートナーやデイトがいたので、独り者の僕は、
適当なところで皆の邪魔にならないように外に出て、家に帰る事にした。

コートの襟をたて、タバコに火をつけて、通りでしばらくタクシーを待ったが、
この時期にタクシーが捕まる訳もなく、結局地下鉄の駅まで歩いて行った。

地下鉄の駅の階段を下りて行くと、女の人とすれ違った。
この寒いのに、タンクトップ一枚で、裸足で歩いていた。
きっと、飲み過ぎて知らない間にそんな格好になってしまったのだろう。

そのまますれ違って、階段をさらに降りて行こうとすると、
その女の子に呼び止められた。

振り返って、彼女の話を聞くと、携帯電話を貸して欲しいという。
パーティの後に、地下鉄で帰ろうとして、地下鉄でレイプをされたと彼女は言った。

本当かどうかは、判らないが、
仕方ないので携帯をかして、警察に電話をした。

大晦日でタイムズスクエアの警備等で警官が簡単に来る訳もなく、
僕もその女の子を見捨てる訳にはいかないので、
警官が来るまで地下鉄の駅のベンチに座って待つ事にした。

その女の子が、寒いというので、僕は、自分の靴下を脱いで、
裸足で震える女の子にはかせた。 それから、自分の上着を脱いで女の子に着せた。

傍目に見たら、きっと不思議な光景だったろうと思う。
地下鉄のベンチに、歳取ったアジア人と若い白人が二人。。

白人の女の子は、ダブダブの上着に靴下をはいている。。
隣のアジア人の男は、薄着をしていて、裸足に靴をはいている。。

別に話をするでもなく、そのまま下を向いてベンチに座っている二人。。
かなり待ったけれども、警官は来ないので、
僕は女の子を促して、警察署まで歩いて行く事にした。

警察署に着き、事情を説明し、ようやく解放されたのが朝の3時だった。

僕も寒くなってきたので、警察署で毛布を借りて、
それを頭から被った。 まるで、難民か何かのようだな。。と自分で思った。
さすがに警察も申し訳ないと思ったのか、
手続きが終わった後に、僕の家まで車で送ってくれた。
全部片付き、チェルシーのアパートの自分のベッドに入ったときは、朝の4時近かった。
ニューヨークの治安は、この10年で格段に良くなり、
僕は、今では、渋谷を歩くときの方が、ニューヨークを歩くよりも
緊張するようになったが、やっぱりこういう事もあるのだなと思った。
朝の9時頃に目を醒ますと、予想はしていたが、空は暗く、雨模様だ。
僕の2008年は、こんな風に始まった。

There must be a better world somewhere...



2008年01月04日  氷点下10度

アメリカでは、1月2日から平常通りなので、
街は、いつも通りの活気を取り戻している。 

来週は、僕が取締役をしている某会社の取締役会があるので、
ラスべガスに行かないといけない。

僕の顧問弁護士も連れて行くのだが、
彼は、去年、奥さんを癌で無くして以来、あまり出張をしたがらない。 
特に、養子の男の子が、最近、彼が出かけると寂しがるというのも理由らしい。

僕は、彼に、子供も連れてラスベガスに来るように言った。

”どうせ、みんな子供みたいにヤンチャな連中なのだから、
取締役会に一人本当の子供が紛れ込んでいたとしても
誰も気にしないぜ。”と僕は、言った。

ニューヨークからラスベガスまでは、
プライベートジェットを飛ばして行くのだから、子供が騒いでも問題ないし、
養子の子に操縦席を見せてやる事もできるだろう。。

彼は、笑って、”考えてみるよ。”と言ったが、
僕は、奴の性格を知っているので、力づくで子供を連れて行かないと、
自分からはOKと言わない男だ。

彼と奥さんの間には、実の娘が一人いる。

奥さんの癌が進行していたが、彼女の望みで、
彼らは黒人の男の赤ん坊を引き取る事にした。赤ん坊の実の両親は、
麻薬に溺れて子供を育てる事が出来なかった。

最初は、フォスターチャイルド制と言って、子供を育てるだけで、
養子縁組をした訳ではなかったが、それだと、
勝手に子供を旅行に連れて行ったりする事が出来ないので、
結局、彼らは、その赤ん坊を養子にした。

そして、その後、数年して奥さんは逝ってしまった。
それから彼は、男手一つで子供二人を育てている。 
僕と彼は、もう20年近くの付き合いになる。 

お互い、運命の波に翻弄されながらも不器用に生き続ける男同士だ。
彼には、黙っているが、僕は、きっと養子の子をラスベガスに連れて行くだろう。
そうすれば、彼も心置きなく働く事が出来るだろうし、
実は、僕も男の子と遊べるのをちょっと楽しみにしている。(笑)
僕も子供っぽいからね。。。



2008年01月05日  緊張感

昨日ほどではないけれど、今朝も寒かった。
白い息をはきながら、車に乗り込み、休みも終わり、
いつもどおりになった朝の渋滞を抜けて仕事場に向った。

来週は、僕が取締役をしている某会社の取締役会がラスベガスであるので、
経営陣が準備をした各種の資料を検討しているところだ。

状況は相変らず厳しい。 
株主に対して今回も100億円程度の株式配当を出す事になっているので、
株主に対する責任は果たしているつもりだけれども、
思ったようなビジネスモデルが書ききれていないので、
今年目標としていた株式公開は、厳しい状況だ。

従業員も、ピシッとした感じがしない。
僕は、会社の目標、従業員のモチベーションといったものを
何よりも優先して考えるけれど、一方において、
緊張感のない職場とそれに気づかない従業員の感度の低さを何よりも嫌う。

残念ながら、この会社には、緊張感がない。
だから、来週の取締役会では、少しハッパをかけなければいけないなと思った。
顧問弁護士の養子を肩車しながら取締役会に入ってくる僕を見て、
経営陣は、和気藹々と進行する取締役会を想像するだろうが、
そこで僕は、爆弾を落として皆を驚かせる事になるだろう。

緊張感を持たせ、それを理解させる為には、効果的な演出も必要なのだ。
常に前進をし、進化し続けないと生き残れない。
生き残らなければ、夢を実現する事はできない。
生き残る事は、容易な事ではない。

だから人よりも時間をかけ、真剣に検討をし、
がむしゃらに努力をしなければ、生き残れないのだ。
そして、今日、生き残っている事を心から感謝し、
明日の生き残りの為に全力を傾ける。

その真剣さが経営陣や従業員にある限り、
僕は、彼らの為にどんな事もするし、地獄の底までも行くつもりだ。

でも、その真剣さが感じられなければ、僕は、彼らとともに歩くつもりはない。
簡単な事なのだ。 
でも、その簡単な事が伝わらない場合もある。。
そんな事を考えながら、僕は、資料を見ている。
僕が、ハッパをかけることで、僕の真意を理解してくれれば良いな。。
まだ彼らにもチャンスはあるわけだから。。


  結局、人だし、その人が、何をしたいのか?って言う事だと思う。
  何のために、今の仕事をしているんですか? 
  目標はなんですか?って聞いた時に、
  元々の目的を忘れちゃう事ってあるじゃない?
  別にお金が必要だから、お金儲けの為に働いています。って言うんでも
  全然構わないんだけど、それだったら、
  ちゃんと金を儲けられるように真剣に考えて欲しいよね。


  自分が、何をしたいのか/しなければいけないのか?って言う事を、
  皆考えているはずなのに、日々の生活が忙しくなったり、
  マンネリになったりすると、ついつい忘れちゃうんだよね。
  でも、僕は、彼女が早く死んだから、より一層、自分が生きている間に、
  何をしなければいけないか?って言う事を真剣に考えるんだと思うんだ。
  それじゃないと、志半ばで逝った人に、申し訳が立たないからね。



2008年01月06日  僕の心は燃えている。

今日の明け方は、嬉しい事があった。。

彼女の夢を見たよ。。
楽しい夢だった。。 
彼女を背中から抱きしめた夢。。
彼女の髪の毛の匂いが伝わって来そうな感じがした。。
また夢を見たいな。。

そんな素敵な夢の後で、体の痛がゆさを我慢しながら目を醒ますのは、
キツいけれど、それは、現実だからしょうがない。

来週のラスベガスでの取締役会の準備は、昨日のうちに終わったので、
今日は、別の会社の仕事関係の準備をするつもりだ。

僕は、この別の会社の取締役もしているが、この会社は、
最近中国の大学とジョイントベンチャー(JV)を作った。

そのJVが軌道に乗り始めているので、
そこが主催で今年の5月に上海で会議を計画している。 
この上海での会議には、その小さなJVの存亡がかかっているので、
僕も最大限彼らの助けになりたいと思っている。

僕と中国の関わりは、長い。
大学を出たばかりの1980年代の後半、僕は、
その頃の仕事で何度も中国、マカオ、香港、ベトナムに出かけていた。。

当時は、今以上に中国産の偽物商品が、世界中に溢れていた。

僕は、アジア人である事とアメリカ/ヨーロッパでの人脈を活かして、
クライアントの製品を守る為に、現地で偽物業者を摘発する仕事をしていた。

まだ、20代前半の頃だった。
当時、偽物商品本体の製造という単純作業を中国本土で行い、
印刷やラッピング等の高度の作業をマカオで行って、
それらを香港であわせて梱包し、ヨーロッパに流すという偽物輸出ルートがあり、
僕が代理をするクライアントの偽物製品も
そのヨーロッパルートでヨーロッパ市場にばらまかれていた。

僕の仕事は、中国、マカオ、香港、ベトナムの裁判所で差し押さえ手続きをして
令状を貰い、現地の警察にガサ入れをして貰い、警察に同行して、
現地で偽物を証拠物件として確保する事だった。

彼らからしてみれば、僕は、
(1)彼らが嫌う日本人であり、
(2)更に、アジア人でありながら西洋資本の使いっ走りをしている、
という二重の意味で、彼らから憎まれる存在だった。

中国、香港、マカオの警察は、ガサ入れに先立ち、
例外無く賄賂を要求して来た。金を掴ませないと、警察は、動かなかったり、
事前に情報が漏れ、証拠物件を確保する事が出来なかった。

ベトナムで偽物製品の製造工場をガサ入れした時には、
偽物業者との間で銃撃戦になり、僕も銃の標的になった。

最後に大掛かりな摘発をシンガポールで成功させた時に、
現地の新聞に、僕の名前が出てしまい、シンガポールのマフィアに狙われて、
命からがらシンガポールから抜け出し、その仕事から足を洗った。

当時一緒に仕事をしていた奴らの一部は、
僕が足を洗った後も、その仕事を続けていた。

何年かして、そのうちの一人が、やはり名前が出てしまい、
マフィアに捕まって拉致をされ、片手を切り落とされて、結局殺された。
その当時は、ショッキングだったので、各国の新聞で記事になった。。 
僕は、その頃は、もう別の仕事で、ヨーロッパに住んでいて、
ヨーロッパの新聞でその事実を知った。。

僕と中国の関わりは、ドロドロと血塗られて、深くて長いものだ。。

ただお陰で、当時、中国の現地警察や司法当局にいて仲良くなった人達が、
退官し、大学の教授や、起業家になっていた。 二十年前には、
それぞれの立場こそ違え、法と正義の為に、死線を越えた同士だ。

僕は、その人脈を使って、全く別の仕事を中国で行おうとしている。
今度は、中国の技術と西洋の技術を組み合わせて、
中国主導の新技術を創造するというのが、目的だ。

新しいものを創造する事は、楽しい。

その小さなJVが出来る事は、
ほんの一握りの事かもしれないが、それでも、僕の心は、燃えている。。



2008年01月07日  誕生日  僕の星

今日は、僕の45回目の誕生日だ。

20代の時には、自分で出来ない事なんてないと思っていた。 
何に対してもがむしゃらに立ち向かっていったし、怖いものなんてなかった。

僕は、自分が29歳で死ぬと思っていたので、30代の時には、
自分が何をしたら良いのかが判らなかった。 
楽しい事も沢山あったけれど、いつも心の何処かで自分と葛藤している10年だった。

40代になって、不惑ではないけれど、迷いが吹っ切れた。 
自分は、自分。 自分だけの我が道を行く。その覚悟が決まった。

彼女と一緒に歩き続けたけれど、45回目の誕生日は、僕一人だ。
でも、寂しくはない。 
男一匹、我が道を行くだけだから。。
明日から、ラスベガスに行く。



ソファに寝転がってテレビを見ながら、カモミールティを飲んだ。
暖かい紅茶カップを両手で包み、僕は、天国にいる彼女の暖かさを思った。
彼女を抱きしめた時の、彼女の匂いと肌の暖かさを思い出した。
窓越しに夜の空を見上げ、彼女の星を探した。
その昔、彼女は僕に、ある誕生日プレゼントをくれた。
彼女が、僕にくれた誕生日プレゼントは、”星”だった。

アメリカでは色々なビジネスがあるが、”星”を売っているビジネスがあるそうだ。 
そこに申し込みをすると、まだ名前の決まっていない”星”が売り出されていて、
それを買って、名前をつけると、
その名前のついた”星”の証明書が送られてくるというものだ。

アメリカらしいインチキなビジネスだけれども、愛する人から、
自分の名前のついた”星”をプレゼントされるというのは、
なんともロマンチックで素敵だと思った。

僕は、彼女のプレゼントを思い出して、
”星”の証明書を引っ張り出し、それを眺めた。。
最愛の彼女がくれた、僕の”星”。
そんな彼女のロマンチックなところを思い出し、
ちょっとセンチメンタルな気持ちになった。。
最愛の彼女がくれた、僕の”星”。。 天気の良い夜に、
久しぶりに僕の”星”を夜空に探してみたい気持ちになった。。



2008年01月10日  ラスベガス

取締役会に出席する為に、
体調が悪いのをおしてラスベガスに向かった。

僕と、僕の顧問弁護士と、その養子を載せたプライベートジェットは、
静かにティートボロの飛行場を飛び立ち、5時間半かけて、
夜遅くにラスベガスの空港に降り立った。

初めての小型ジェットでの旅立ったので、
顧問弁護士の子供は、おおはしゃぎだった。

ジェットの操縦席に座らせたり、飛行機から見える景色を色々説明したりしたり、
子供は一時もじっとしておらず、旅を楽しんでいるようだった。
ラスベガスに着く頃は、かなり遅くなっていたので、
子供は、客席後部のベッドで寝息をたてていた。

僕らは、滑走路に迎えに来ていた車に乗り込み、
そのままホテルにチェックインをした。
会社の経営陣とバーで話をしようかとも思ったが、
体調が悪かったので、僕は明日に備えて、そのまま眠る事にした。

翌朝は、ニューヨーク時間で、かなり早くに目を醒ました。
体調は、相変わらず悪いが、大事な仕事だから、
そんな事は、言っていられない。
朝日が上ったばかりのラスベガスの砂漠に目をやった。

禿げ山が紫色に染まり、美しい光景だった。
ラスベガスは、なんともアメリカらしい街だ。
全てが、偽物でできている。。。

虚構、絢爛、頽廃、甘美。。

昔は、ラスベガスの経済の90パーセント以上は、
ギャンブルで成り立っていたが、今では、ラスベガスの経済の中で
ギャンブル収入が占める割合は、僅か30パーセント程度だそうだ。

最近の観光客は、ギャンブル以外にも、買い物、
レストラン、観劇等により多くの金を落としていくらしい。
僕のホテルの部屋からも、建築中の新しいホテルの骨組みが見える。
僕が、この街に初めて来たのは、今から20年も前の話だ。。
その頃から比べると、今のラスベガスは、全く別の街のようだ。

ホテルもその主役の座が、何度も変わり、昔は、人気のホテルも、
その幾つかは寂れてしまったり、別のホテルに立て替えられたりしている。

何となく、それを見ていると、僕の人生を見ているような気がして来た。
栄枯盛衰を繰り返し、昔は、羽振りの良かった人の多くが、
時代の波に飲まれていなくなってしまった。

僕には、これからどんな運命が待ち構えているのだろうか。。
景色を眺めながら、そんな事を考えていた。




2008年01月12日  大人になれない人

ラスベガスでの仕事を終え、ニューヨークに戻った。

取締役会では、久しぶりに吠えてみた。
経営陣を鼓舞するのが目的だったけれど、
本当は、自分を自分で鼓舞したかったのかもしれない。

自分の夢を実現できるのは、自分しかいない。
自分以外の誰も自分の夢をかわりに実現する事はできない。
自分に夢は、あるのか?
自分の力で夢を実現したいと思っているのか?
夢を実現する為には、自分は、何をしなければいけないのか?

人は、たまに周囲の雑音に惑わされて、簡単なもの、
基本的なものを見失ってしまい、
目的を達成する為の手段だったはずのものが、
いつのまにか目的にすり替わってしまっている事がある。

会社を作るのが目的だったわけではなく、会社を作ったのは、
我々同士の共通の目的を達成する為の手段だったはずだ。

だから何らかの理由で、目的の達成が困難な状況になっているのであれば、
何が問題で目的が達成できないのか? 
どうすれば目的が達成できるのか?を議論すべきで、
まず会社の存在ありきで、議論をするのは、本末転倒だ。

人は、生きていけば、その過程で色々なしがらみを背負っていく。
そして、そのしがらみに縛られていく。 
そのしがらみの中で、いかに上手く初心を貫くか、
目標を達成できるかと言う事が、大人になると言うことなのだと思う。

子供の時には、純粋に目標だけを見つめて歩く事ができた。
大人になれば、異なった目標をもった沢山の人たちと
社会を構成しながら生きていくわけだから、
自分の目標だけを見つめて歩くわけにはいかないと言うことは、
良くわかっているつもりだ。

でも、しがらみばからに気を取られて、
自分の目標を見誤ってしまったら、生きている意味がないじゃないか。。
取締役会では、言うべきことは、言ったつもりだ。

経営陣が、僕の意見に同調してくれたかどうかは、わからない。

ただ、僕は、言うべきことは言った。
会議が終わり、僕は、ちょっと寂しい気持ちになりながら、
顧問弁護士の子供の手を引いて、ホテルの外に出た。

ちょうど、ラスベガスのストリップ(大通り)は、夕暮れ時だった。

ラスベガスの街を取り囲む山並みが、夕日を浴びて紫色に染まっていた。
僕は、子供の手を引いたまま、
べラージオ ホテル前の大噴水に寄りかかって、噴水を眺めてた。

子供は、噴水の水を追いかけて、右に、左に、走り回っていた。
僕は、大人になりきれない大人なのかもしれない。
青臭い気持ちを捨てきれない男なのかもしれない。
センチメンタルな男なのかもしれない。


暫くすると、日は完全に沈んでしまい、ラスベガスの街は、
夜の闇の中に、絢爛豪華なネオンサインを飾りたて始めた。。

僕は、子供の手を引いて、
顧問弁護士に振り返り、”ニューヨークに帰ろう。”と言った。

二人とも頷いて、二人の男と一人の子供は、
待たせていた車に乗り込み、飛行場へ向った。

帰りのジェットの中では、景気づけにロック ミュージックを
大音量でかけながら帰った。

子供は、はしゃいで、音楽にあわせてベッドの上で、
トランポリンのように跳ねて遊んでいた。

僕と顧問弁護士は、それぞれ机に足を投げ出しながら、今後の作戦を練った。

僕は、病気で薬を飲んでいるので、今は、酒を飲むことが出来ない。 

体を壊している事を、顧問弁護士も含め、誰にも伝えていないので、
顧問弁護士に悟られないように、ラムとコーラを混ぜて
キューバリバーを作りながら、こっそりと自分には、ただのコーラを注いだ。

キューバリバーで乾杯をしながら、
僕は、顧問弁護士と話し続けた。。

彼も、僕のような男が、クライアントだから余計な苦労をさせてしまい、
申し訳ないなと思った。

"苦労をかけて、すまないな。"と僕は、彼に言った。

彼は、"退屈な人生を送っているよりも、楽しいぜ。 
毎日が、サーカスみたいだからな。"と言って、笑って見せた。
僕も笑った。。



2008年01月15日  Waiting on an Angel / Ben Harper

結局、昨日の夜は、天使を待ち続けて酒を呑んでいたけれど、
天使が現れる事はなかった。。
僕は、ワイゼンボーンを膝の上にのせて、ウイスキーを飲み続けた。

スティービー レイ ボーンを聴いたり、ベン ハーパーを聴いたり、
自分でブルースを演ったり、底冷えのする冬の夜を暖炉の前で、
タバコを片手に酒を呑んで過ごした。

暖炉の火は、人の気持ちを落ち着かせる力を持っているのかもしれない。
そういえば、まだ彼女が生きていた頃に、彼女と一つの毛布に包まって、
ワインを飲みながら暖炉の火を見つめた夜があったっけ。。

何故か、とても懐かしくて、優しい気持ちになった。
ワイゼンボーンを抱き寄せて、ベン ハーパーの
The Three of Usや、Waiting on an Angelをつま弾いた。

このワイゼンボーンを持って、彼女と一緒にカリブに出かけた事を思い出した。

僕は、砂浜にデッキチェアを出して、
海岸で波と遊ぶ彼女を眺めながら、ワイゼンボーンを弾いていた。。

太陽が、眩しかった。。
彼女の微笑みも、眩しかった。。
あの時は、こんな時がやってくるとは、夢にも思っていなかったので、
何気ない気持ちで、Waiting on an Angelを唄っていたけれど、
今、僕達に起こった全ての現実を経験した後では、
僕には、この唄は、なんとも切ない。 でも、大好きな唄だ。

”僕は、こうやって天使が来るのを待っている。
僕を天国に連れ帰ってくれる天使を待っているんだ。
天使が直ぐにやって来てくれると良いな。
だって、僕は、一人では逝きたくないから。。
ねえ、天使さん、僕の祈りを聞いて、早く僕の所に来てくれないか?
僕の手を取って、抱き上げてくれないか?
そうしたら、僕は、君と一緒に、飛んで行く事ができるから。。
僕は、こうやって天使が来るのを待っている。
もう少しで、僕は、安息の地に行ける事を知ってるよ。
天使の腕に抱かれてね。 天使の腕に抱かれてね。。
知らない人と話す時には、親切にしないといけないよ。
だって、それが姿を変えた天使かも知れないからね。。
君の心のドアをそうやってノックしているのかもしれないから。
僕は、こうやって天使が来るのを待っている。
もう少しで、安息の地に行けるんだ。
天使の腕に抱かれて。
僕を天国に連れて行ってくれる天使を待っているんだ。
早く天使が来てくれれば良いな。。
だって、僕は、一人では逝きたくないから。。”

あの時には、僕は、この唄を、南の島の海岸で唄っていた。。
今は、僕は、同じ唄を、底冷えのするニューヨークの一室で、
星のないくらい夜空を眺めながら唄っている。。
今夜は、天使はやって来そうもない。。
僕は、唄のように、天使を待ちながら、それまでは、
周りの人に優しく、愛を与えながら毎日を過ごすのだろう。
 
Waiting on an Angel / Ben Harper

Waiting on an angel
one to carry me home
hope you come to see me soon
cause I don't want to go alone
I don't want to go alone
Now angel won't you come by me
angel hear my plea
take my hand lift me up
so that I can fly with thee
so that I can fly with thee
And I'm waiting on an angel
and I know it won't be long
to find myself a resting place
in my angel's arms
in my angel's arms
So speak kind to a stranger
cause you'll never know
it just might be an angel come
knockin' at your door
knockin' at your door
And I'm waiting on an angel
and I know it won't be long
to find myself a resting place
in my angel's arms
in my angel's arms
Waiting on an angel
one to carry me home
hope you come to see me soon
cause I don't want to go alone
I don't want to go alone
don't want to go
I don't want to go alone



2008年01月16日  壊れていく自分   過去から今までの自分

最近、自分が壊れていくなあと言う事を身を持って感じるようになった。
まあ、45年間酷使してきたわけだから、
そろそろヤキが回ってきても仕方ないのかもしれない。 
むしろ、ここまで生き延びてきた事を感謝すべきなのだろう。

僕が、始めてニューヨークの土を踏んだのは今から26年前の夏だった。

当時の僕は、19歳で音楽で身を立てることが自分の夢で、
憧れの街、ニューヨークにやって来た。
最初に年を誤魔化して、アメリカにやって来たのが、
それより4年前の15歳の夏だった。 
僕の目標の地、ニューヨークにやってくるまでそれから4年の月日がかかった。

そして4年の月日が経ち、やっと憧れの街、ニューヨークの土を踏んだ。

当時は、ニューヨークに知り合いなどおらず、
僕は、42丁目の裏にある、ホテル カーターと言う安ホテルに泊まった。

ドアの鍵が壊れていて、シャワーの水が出ない部屋だった。
そこで毎晩、色々なライブハウスに出かけては、地元のバンドを見た。
そして、その中のバンドの一つに潜り込んだ。 
出会いは、偶然だった。 たまたま路地裏で絡めまれていた女の子を助けたが、
逆に暴漢に二人で追い回され、夜中のニューヨークを二人で逃げ回った。

その女の子は、その晩ライブハウスに出演していたバンドの子だった。
それが縁で、僕は、その子のアパートに転がり込み、バンドに入れてもらった。

バンドだけでは食べていけずに、その子は、
ナイトクラブでトップレスのダンサーをしていた。 
そこで、ヤクザのヒモが出来てしまい、後は、お決まりの転落劇だった。

結局、その子は、薬中になり、ギターも弾けなくなってしまい、
楽器を手放し行方知れずになってしまった。 
風の便りでは、薬で死んだと聞いたけれど、今となっては、確かめる術もない。
その後、僕もいくつもの出会いと別れを繰り返し、夢を追い続けた。
その頃の話を、僕の友達のよねちゃんに頼まれて、
彼が主宰するブルーレコード誌に、短い読み物にして書きとめた。

よねちゃんが、その読み物に、”Jo Jo Walk"と言うタイトルをつけてくれた。
その後、僕は日本に舞い戻り、音楽を続けた。
福生、横須賀、厚木、嘉手納と基地を回った。
そして、初めて自分の人生をかけた恋に落ち、夢破れ、事故で彼女と僕の子供を失った。 
僕は、全てを失った。 

そして僕は、日本を捨てた。
あれから20年近くの月日が、経った。

僕は、死に場所を探して、自分を探して、生きなければいけない理由を探して、
世界中を転々とし皮肉にも、最終的には昔の夢の街だったニューヨークに舞い戻った。

闘い続けた20年だった。
自分と闘い、周りと闘い続けた。
負けたらお終い。。そんな人生だった。
そして彼女と出会い、生きる意味がようやく判った様な気がした。
そして僕は、最愛の人をもう一度看取る事になった。
彼女を失った事は、気が狂いそうなほど悲しいけれど、
今度は、自分を見失うような事はなかった。
自分がやり通せるか自信はないけれど、
やらなければいけないことは、判っているから。

僕がやらなければいけないことは、人を愛する事。
人の幸せに尽くす事。そして、見返りを求めない事。
天を敬い、人を愛する。。 それが、僕が生きる理由だ。

数日前に、昔の友達から連絡があった。
彼の会社が、中国で難儀をしているらしい。
助けてくれと言うのが、彼が僕に久しぶりにコンタクトをしてきた理由だった。
今は、僕も自分の事で手一杯だ。
彼の話を聞いていると、かなり状況は悪いらしい。 
なんど話を聞いても筋の悪い話だ。。
でも、そのまま後ろを向いて、そこから立ち去る事ができない自分がいる。
まだ返事はしていないけれど、きっと、僕は、彼を助ける為に、
彼の仕事に関わっていく事になるのだろう。

これを機会に、僕は、坂を転がり落ちるように転落していくのかもしれない。。
でも、壊れないものはないし、終わりのないものはない。
まあ、情の為に、転がり落ちるのも悪くないか。。 
そんな気がした。
僕は、不器用な男だ。 
自分なりの天敬愛人を貫いて、朽ち果てるのであれば、
それはそれで一興かもしれないと、ふと思った。
これが、僕の生き様だから。。



2008年01月19日  中国行き

あまりやる気がわかないのだが、結局僕は、
昔の友人の手助けをする事になり、来週早々に中国に行く事になった。
動き出すまでに時間はかかるけど、いざ動くと決めたら、
誰よりも早く動くのが僕の僕たるところらしい。
やるからには、最善を尽くし、後で後悔をしたくないからだ。
体が本調子ではないので、本音は、今中国にいくのはキツいのだが、
残念ながらそんな事を言っている余裕が無い。。
歳は取りたくないなあと思いながら、思わず伸びをして、背筋を伸ばしてみた。

夜は、仕事関係の友人を8人程誘って行きつけのレストランで
こじんまりとした食事会をした。

仕事場を出る時には、ニューヨークの街にも雪が降っていた。
僕は、雪に濡れながら駐車場に自分の車を取りに行き、
途中で友達を拾って、レストランに向かった。
たくさんで食事をするのは、やはり楽しい。

久しぶりのワインとおいしい料理で、夜中近くまで楽しい時間を過ごした。
雪に濡れたせいか、今朝目を醒ますと、喉と体全体が痛く、どうも風邪をひいたようだ。。
これから中国に行くのに、風邪をひいて熱をだしているようじゃ困った。。。



きっと、中国も寒いんだろうな。。
体調がまだ戻らなくて、今度は、喉が痛くて声が出ない。

そんな事より、声が出ないと、そもそも仕事にならないんだけどね。。

兎に角、今日は、もう外には出ないで、家の中で暖かくして早く寝るつもり。。

という事で、僕は、明日から具合が悪いのをおして中国に行くけれど、
一体、吉と出るか、凶と出るか、全く自分でも見当がつかない。
でも、考えているだけでは、何も起こらないから、兎に角、動き出さないといけない。

男一匹、息絶えるまで歩き続ける。。
僕みたいな男が、一人この世から消えても何の影響も無い。。
だったら、行ける所まで歩いて行くつもり。
倒れた先にあるのが、何なのか、見てみたい気もするし。。




2008年01月23日  国を背負う事

気合が入って、必死になり余裕がなくなってくると、
自分の体調の悪さに気が回らなくなってくる。
今回の中国は、成田経由だったので、飛行機はまず日本に向った。

飛行機の中で、僕は、ありとあらゆるシュミレーションを再確認し、
色々な局面における対応の仕方についてもう一度頭を整理した。

日本の海岸線が見えてくるといつも感慨無量になる。
いかに理由があって日本を捨てたとしても、
外国をベースに何十年働いていようとも、
ニューヨークが心のふるさとになったとしても、
日本の海岸線が見え、山並みが見えてくると、感慨無量になる。

それは、何があっても、僕が、日本人であると言う事であり、
僕にとって、日本は母なる国であり、最も愛すべき国だからに他ならない。
外国で暮らしていると、好むと好まざるとに関わらず、日本を背負う事になる。

日本にいる人は、僕なんかに日本を背負ってもらっては
迷惑だと思うだろうけれど、僕と日々関わりあっている外国人は、
僕の言動を通して日本人を認識するわけで、極論をすれば、
僕の言動=日本を代表する事になってしまう。

だから自然自然に、外国人と接する時には、
日本人として恥かしくないように気をつけるようになる。 
どんな礼儀知らずに対しても礼儀を尽くすと言う事も、
理論的に考えれば理不尽な事だが、
日本人の礼儀に対する気持ちを損なわない為には、
個人的には悔しい思いをしても、どんな相手に対しても礼儀を尽くすように努力している。

礼儀を尽くし、堂々としている。。 これが、僕の目指す日本人だ。
外国には、自分のルーツを馬鹿にしたり、酷い場合によっては、
ルーツを誤魔化している人も残念ながら沢山いる。

本人なのに、アメリカ人を気取ったり、
見苦しいくらいに自らの母国を貶めようとする人もいる。

僕は、そういった人達を信じない。
自分のルーツを勉強し、理解し、誇りを持つ事もできないような人が、
色々な重要な局面において信頼にたる人であるはずがないと僕は思うからだ。

外国で必死に生き抜くということは、ワールドカップが毎日あるようなものだと思う。 
日本にいると、ワールドカップやオリンピック等にならないと
日本を強く意識する事は少ないのかもしれないが、外国では、
日々自分のちょっとした発言や行為が、国を背負う事になると思うのだ。

そこまで思いつめて、仕事の局面を迎えると、たいていの場合、
相手に気合負けをする事はない。

武器は捨てたと言ったけれど、日々を生き抜くことも真剣勝負だから、
戦う気持ちは、捨ててはいない。
自分の信念に従い、気持ちを空にして、一撃にかける。。
気持ちは、静かで落ち着いている。



2008年01月25日  疲れた。。

流石に無理をし続けたので、正直、体も心もボロボロになった。

現地に乗り込み、早速相手方と交渉を始めた。
僕に付き添っているのは、現地人の若い通訳ただ一人。

いつものように、相手は、束になってかかってくる。
この劣勢を覆して、一気に自分の思いを遂げる為には、
肉を切らせて骨をたつしか方法がなかった。

その為には、相手に肉を切らせて油断をさせ、
一瞬の隙をついて一気に骨をたち、深追いはせずに、
さっさと引くと言うのが、僕のたどり着いた結論だった。

表面的に友好的なムードのまま、交渉は幕をあけた。
それも僅かの間で、彼らは、とてもアグレッシブに、容赦なく攻め込んでくる。
ここは、じっと我慢だ。

僕は、色々なものを失い始めた。
彼らは、手ごたえを感じたようで、一気に堰を切ったように攻め込んでくる。 
そこには、情け容赦のかけらもなかった。

僕は、ただただ我慢をする。
彼らが、少し傲慢になりかさにきて、僕の狙っているポイントに落ちるまでひたすら待ち続けた。
攻め込まれても、決して動じず、ただ理を説き続ける。
彼らは、更に勝ち誇ったように、攻め込んでくる。
こういう時の中国人のアグレッシブさは、壮絶なものだ。
それでもひたすら我慢をする。
最後には、となりに座っている通訳さえも、震えだした。
通訳の声もどんどん小さくなっていく。
仕方がないので、通訳を使わず、僕は、ただただ英語で理を説き続ける。
彼らが、僕の狙ったポイントに足を落とすのをただただ待ち続けながら。。

これ以上切らせる肉もなくなりかけた時に、
ついに彼らは、傲慢になり僕が狙っていたポイントに自ら足を落とした。
ここだ!

満を持して、すばやく一撃を加える。 
たった一度の攻撃で、彼らの骨まで断たなければいけない。
そして、深追いをせず、一気に引く。
この一撃を待つ為に、僕は、全ての体力を使い切ってしまっているので、
僕には、二の太刀は、ない。
だから、彼らにそれを悟らせる事なく、彼らが混乱をしている間に、
彼らの面子も立てながら、一気に逃げる。
幸運にも、僕が思い描いたように、渾身の一撃は、彼らの骨を砕き、
混乱で一気に意気消沈をしたところを、彼らの顔も立てながら、
僕が求めていた条件を引き出して、逃げ切る事ができた。
全てが終わったときには、流石に疲労困憊し、歩く事もままならなかった。
無事に仕事をまとめ、引き上げる時に、通訳の中国人が、”貴方には、感服しました。 
貴方の姿勢に、最後に幸運が味方をしてくれたのですね。”と興奮気味に言った。
幸運が味方をしたのではない。。 あの一撃は、ずっと狙っていたのだ。 
相手方が慢心のあまりに踏み込む事を予測して、それを待っていたのだ。。
しかし、そんな話を彼にしたところでしょうがない。
またこれから仕事をする相手方に、気分の悪い思いをさせるのは、愚の骨頂だ。
自分の望む条件を得たら、必要以上に相手を打ちのめす事はせずに、
相手の気持ちを汲みながら、一気に引く。
それが、日本人の闘い方だと、僕は思っている。
通訳の彼には、”全く君の言うように、あれは、ラッキーだったよな。”と言って微笑んで見せた。
ホテルに帰り、荷物をまとめ、倒れる前に、ニューヨークに帰ろう。
まだ僕には、やらねばいけないことが、たくさんあるのだ。



2008年01月27日  冬眠

怒濤のような中国での仕事が終わり、金曜日の午後に一目散に逃げ帰った。
成田で飛行機を乗り換える事になり、成田のJALのラウンジで2時間程、休んだ。
一応、ファーストクラス専用のラウンジなのだけれども、結構混んでいた。

僕は、成田からブラジル行きの夜のフライトに乗り、
ニューヨークで途中下車する事になっていた。
 JALは、日本時間の昼に飛び立つニューヨーク行きの便と、
ニューヨーク経由でブラジルに飛ぶ夜の便と一日2本の便が、ある。

機材は、昼の便の方がいつも新しい機材を使っている。
夜のブラジル便は、お世辞にも綺麗な機材とは言えない。

でも、どうせ飛行機の中では、殆ど寝ているので、
僕は、夜のブラジル便に乗る事が多い。

ラウンジの中は、静かなのだが、日本人のおじさんが、若い従業員を掴まえて、
ラウンジのTVのチャンネルかなにかのつまらない事で、声を荒げて怒っていた。
どうして、そんなつまらない事で声を荒げるのだろう?
僕は、血を吐くような数日を過ごして、兎に角、眠りたいのに、
そのおじさんの怒鳴り声が煩くて眠れなかった。
そうやって声を荒げる人程、情けない程弱い人が多い。(笑)

相手が絶対抵抗できない若い従業員だから、安心して声を荒げているだけで、
相手が、熊のようにでかい外国人だったり、
僕のようにどう見ても堅気に見えない人には、
決して声を荒げたりはしないだろう。
弱い犬ほど、良く吠える。。

いつまでも延々と大きな声で説教をしているので、
よっぽど、おじさんの所に言って静かにするように言ってやろうかと思ったけど、
ラウンジの支配人みたいな人が出て来て、
おじさんをなだめていたので、余計な事をするのは、やめた。(笑)

やっとおじさんも静かになり、僕もウトウトし始めた頃に、搭乗時間になった。
飛行機に乗り込み、荷物をしまい、コートを預けて自分の席に座った。

僕の担当のスチュワーデスが、可愛かったので、
暫く起きていて話をしたいなとも思ったけれど、
結局、眠気には勝てず、飛行機が離陸すると同時に、
シートをフラットにして、ぐっすり寝入ってしまった。

東京からニューヨークへの帰りのフライトは、追い風の影響もあり、11時間半程だ。
7時間程寝て、一度目を醒ました。
スチュワーデスが来て、食事を取っておいたので食べるか?と聞かれたけれど、
結局、何も食べずにそのままもう一度寝てしまった。
それからまた3時間程寝て、着陸1時間前にもう一度目を醒ました。
また何か食べるか?と聞かれたので、コーヒーを2杯程飲んだ。

11時間半ずっと何も食べていないけれど、具合が悪いのか?と聞かれたので、
”具合は悪くないけど、もうポンコツだから兎に角、寝たいだけ。”と言って笑ってみせた。

そのスチュワーデスも笑った。 
彼らにしては、サービスの一環の営業笑いだけど、可愛い笑顔だなと思った。(笑)

飛行機を降り、入管を抜け、
空港のホールで待っていた僕の運転手を見つけて、彼の車に乗り込んだ。
ニューヨークは、既に気温が零下に落ちていたけれど、中国の方が寒く感じた。。

来週は、ニューヨークにいるけれど、
2月は、初旬からシアトル、サンノセ、LAと西海岸をまわって、
中旬には、パリ、ロンドンとヨーロッパを周り、
月末には、また中国と日本に行く予定になっている。
今週末は、何もしないで冬眠をするつもり。
寝るのが一番の薬だからね。(笑)



2008年01月31日  もうすぐ1月も終わり。。

1月は、体調を崩して散々な目にあったが、
ようやく体調も元に戻りつつある。

お陰で少し痩せたけれど、健康的な痩せ方ではないので、
またジムに行ったりして体型を戻さないといけない。

そうは思っているのだが、2月は、殆ど外に出っ放しなので、
なかなかゆっくりとジムに行っている時間も見つけられないかもしれない。
たまに、ふと体が3つあったら良いだろうなと冗談で思うことがある。
アメリカに一人、ヨーロッパに一人、そして日本にもう一人。

でも、そんな事を考えるのは、
仮に冗談でも不謹慎だなと思って反省をした。
まあ、忙しさに忙殺されるのは、嫌だけれども、
まだやりたいことが出来る体力が残っているだけでも、
天に感謝しなければいけないと思うからだ。

文句を言えばキリがない。
でも世の中には、自分のしたい事があっても
様々な理由でできない人も沢山いる。

だから、恵まれた環境にありながら、些細な事で、
文句を言うとバチがあたると思うのだ。
ただただ、自分がこうやって毎日を生きていけることを感謝して、
折角の機会を与えられた以上は、それを成し遂げるために、
どんなに格好悪くても、
死に物狂いで努力をすると言う事なのだと思う。

最近は、本当に人生は、修行だなと思うようになった。
そして修行をする機会を与えてもらっている自分は、
幸せだと思うようになった。

いつも天に見られていると思うと、やはり恥かしい事はできない。
僕の場合は、天のほかにも、僕を見ている人が、もう一人いるから、
彼女に変なところは、見せられない。(笑)

きっと、高い空から、下界にいる僕を見下ろして、
”あーあー、なにやってんのよ。。”と思って見ているんだろうな。。(笑)
君のためにも、僕は、自分に与えられた修行を全うできように頑張るよ。
たまにで良いから、くじけそうになった時には、
こっそり後ろで僕を支えてくれたら嬉しいな。(笑)






2008年02月01日  晴耕雨読

相変らず、忙しく動き回っている。
2月は、既に日記に書いたような状況だし、
3月以降もおそらく同じような感じだろう。

ニューヨーク、サンノセ、ロンドン、アムステルダム、
東京、北京、上海、香港、ムンバイの9都市が、
多分今年の僕のベースになってくるような感じだ。

忙しくなればなるほど、人の為に生きる事を心がけるようにしている。
つい自分が手一杯になってしまうと、自分の事だけを考えがちになる。
自分の便利や利益だけを考えて、自分の事だけを考えると、危なくなった時に、
不思議に周りから救いの手が来なくなってしまい、窮地に追い込まれる。

私利私欲を捨てて、人の幸せの為に頑張っていると、
危なくなった時に、
不思議に何処からともなく救いの手が差し伸べられるのを、
僕は自分の人生で何度も経験した。

だから、忙しくなるほど、自分を捨てて人の為に生きるように心がけないと、
ついつい僕もわが身可愛さに自分中心になってしまい
結局失敗してしまうからだ。

正義を貫き、人の為に生きると言う事は、
他人の苦しみを分かち合う事になるわけだから、
自分自身も相当ボロボロになる。

だから人の為に生きると決めるにも、相当の覚悟が必要になる。

よく上から目線で他人を助けたり、
自分の勝手な理論で他人を助けたりする人を見かけるが、
僕は、それは違うと思っている。

どんな人も平等で、真剣に生きており、生き抜くために必要なプライドを持っている。

だから上から目線でのボランティアや
自分の理論を相手に押し付けるような援助は、
他人のプライドこそ傷つけても、人を助ける事にはならないと僕は思う。  

そこが、僕が、アメリカのグローバライゼーションと相容れないところなのだと思う。

人の為に生きると言うのは、僕にとっては、
それだけのコミットメントだと思っている。

ともに痛みを分かち合い、それを乗り越え、乗り切ると言うのが、
人の為に生きる事だと、僕は感じている。

その為に、他人の苦労を背負い、
ともに傷つき、のた打ち回り、ボロボロになるけれど、
結果として、僕は、その人の人生の一部もともに経験する事ができ、
たった一度の人生なのに、
一度に何人分もの人生を経験する事が出来ると思うのだ。

そして、その経験は、僕の心をより豊かに、
そして慎み深いものにしてくれると思うのだ。

そうやって僕は、人生を勉強させてもらっているのだと思う。
だから、自分が忙しくなるほど、自分を捨てて人の為に生きたいと思う。

そして、自分の人生を終えるちょっと前に、大好きな人と、
晴耕雨読の生活をちょっとでも満喫できれば、最高だと思う。

それが、僕が自分の人生を全うするにあたっての、
ささやかなお願いだ。

最後の1年くらいは、大好きな人と、静かな山里で、畑を耕しながら、
自然を愛し、自然に愛され、ゆっくりとした時間を過ごしたい。
月を愛で、草木を楽しみ、虫の音を聞きながら、大好きな人と語り合いたい。

その時が来るまでは、何があっても頑張りぬく覚悟だ。 
そして、その時が来るまでに、
この世にはいない大好きな人を心で感じられるように、
もっと心を研ぎ澄まさなければいけない。。

彼女が一緒でなければ、晴耕雨読をしても楽しくないからね。(笑)
だからその時が来るまで、僕は、頑張る。 
その時が来るのは、そんなに遠い事ではないと言う気がするから。。



2008年02月02日  愛のある日。

僕の周りで、世界は、とんでもない速さで動いていく。
株価が下がっても、大統領選挙があっても、フットボールの試合があっても、
僕の周りの世界は、一時も足を止めることがない。
ちょっとでも足を止めると、あっという間に置いてけぼりだ。。

Life in The Fast Lane。

駆け足の人生。
”狭い日本、そんなに急いで何処に行く?”と言う
交通標語が昔あったことを思い出した。
確かに、そんなに急いで皆は、何処に行くのだろう?

彼らが駆け足で向って行くその先には、一体何があるのだろう?
一目散に走り続けて、彼らは、道端の花や、
ふっと笑顔を浮かべてしまうような、
ちょっとした人々の生活の機微に触れることが出来るのだろうか?

それとも、彼らは一足でも目的地にたどり着く為に、
そんなものには、目もくれないのだろうか?

たまに僕は、駆け足で走り去る周りの人々を眺めながら、
一人立ち止まり、そんな事を考えてしまう。
僕だって、駆け足の人生を送っている。
特に、インターネットが普及してからは、本当に生活のスピードが速くなった。 
世界の片隅の情報が、あっという間に、全世界に知れ渡ってしまう。

先手必勝で世の中を出し抜く事が、
難しくなった反面、誰にでもチャンスが広がった事も事実だ。
戦い詰めで、働き詰めの毎日だけれど、僕は、ほんのちょっとだけでも、
一日一度は、立ち止まりまわりの景色を眺めるように心がけている。
ふとしたことで、心が温かくなったりするからね。
そんな素敵な瞬間を僕は、失いたくないから。
ふとしたことで、心が温かくなって元気を貰ったら、
先に走っていった競争相手に追いつくように、倍の速さで走ればよい。
夕日を眺めたり、
月を眺めたり、
道端に咲く草花を眺めたり、
無心で遊んでいる子供の後姿を眺めたり、
手を繋いで幸せそうに道を歩いている恋人達を眺めたり、
子供に手を引かれて一生懸命子供達に
ついていこうとするお婆さんの後姿を眺めたり、
この世の中には、愛が溢れている。
ほんの些細な事なんだけど、小さい幸せや、小さい愛に溢れている。
そんな小さな幸せや、小さな愛に触れたときに、
僕も人間で、人の子である事を思い出す。

昨日は、夜遅くまで働いた。

日本とのビデオ会議があったので、日本の人達に敬意を表してスーツを着込み、
ビデオ会議は、ニューヨークの夜遅くまで続いた。
ビデオ会議を終え、僕は極寒のニューヨークの街並みに出た。

まだ夕食を食べていなかったので、迎えの車に乗り込んでから、
チェルシーのアパートの近くのレストランに行ってもらった。
レストランに入り、一人で食事をした。
周りは、みんなカップルかグループで、一人で食事をしていたのは、
僕だけだったけれど、まわりのテーブルの暖かさが、
僕の所にも伝わってくるような感じだった。
たった一人で寂しく食事をする僕も、
まわりのカップルの愛の暖かさのお裾分けをして貰ったような気がした。
チェルシーの家に帰り、大好きなソファに包まれて、
ワインを飲みながら遅くまでテレビを見ていた。
テレビを見ながら眠ってしまったようで、
風邪をひかないように、テレビを消し、ベッドに入った。

明け方、彼女の夢を見た。
夢を見たというか、彼女がベッドに入ってくる夢を見た。
僕を起こさないように、そおっとベッドに入ってきて、
僕の背中から彼女に抱きしめられた気がした。
昔みたいだなと思って、夢の中でちょっと懐かしい気がした。

僕は、夢の中で、背中からまわしてきた彼女の手を、僕の胸の前で握り、
彼女の体温を感じながら、もう一度眠りに落ちた。
お陰でぐっすり眠る事ができたし、気分良く目を醒ます事ができた。

愛に包まれている感じがした。
外は、朝から雨で、窓ガラスが雨音をたてているけれど、
僕には、なんか天国で目覚めたような、
安心した、すっきりした、暖かい気持ちがした。
朝に包まれた幸せな朝だった。。
せっかく、こんな穏やかな気持ちなのだから、
誰かにそれを分けてあげたい気持ちになった。

今日も、駆け足の一日を過ごすけれど、時間を見つけたら、どこかで立ち止まり、
今日は、僕が穏やかな気持ちの温もりを誰かに分けてあげよう。。




2008年02月03日  哀しい笑顔

昨日は、折角の金曜日だったが、気温も寒く冷たい雨が降っていた。

僕は、仕事を片付けてから、
彼女の女友達の一人に呼び出され久しぶりに、その友達に会った。

その友達と会ったのは、もうかなり前の事なので、彼女が死んだあとに、
彼女なしに会うのは、ちょっと違和感があったが、
相談があると言われ、断る理由も無いので会う事にした。

久しぶりに会った友達は、前よりも少し綺麗になったような気がした。
友達を車に乗せ、
僕は、ウエストビッレッジのChow Barというエスニック料理の店に向かった。

Chow Barは、賑やかなウエストビッレジの中では、裏通りにある事もあり、
比較的静かで、話をするには、ちょうど良いレストランだ。

二人で暗い店内に入り、奥の方のテーブルに腰を下ろして、
まずは、ジンジャー コスモポリタンを二つ注文した。

ジンジャー コスモポリタンは、この店の名物カクテルだ。
コスモポリタンを飲みながら、僕らはぽつりぽつりと話をした。

蝋燭の灯りに照らされた友達の顔は、相変わらず端正で素敵だけれども、
ちょっとやつれたようにも見えた。

”貴方の方は、その後どうなの?”と友達は、聞いた。

僕は、ライムの皮をグラスの縁にこすりつけながら、
”まあまあ、かな。。”と答えて、友達にちょっと微笑んで見せた。
”貴方は、本当に哀しそうに微笑むのね。”と友達は、言った。
僕は、もう一度彼女に微笑んで見せた。
もうすぐ、彼女が死んでから丸一年が経とうとしている。
時が経つのは、早い。

僕の世界の精神的と言うか内面的な部分は、
彼女が死んだ時に、時間が止まってしまった。 

それでも、僕の世界の、物質的な部分は、相変わらず時を刻み続け、
僕は、今日も人の為に働き、そして生きている。

そこを友達は、敏感に感じて、
僕の微笑みは哀しい微笑みだと言ったのだろう。

でも、こんな僕でも、愛を必要としている人に、
愛を分け与える事はできるし、
色々な人からも幸せや愛をわけてもらっている。

人は、哀しみを知るから、その分人に優しくできるし、
人の幸せを真摯に祈る事ができる。

愛情や、優しさには、色々な種類があると思うけれど、
僕の愛情は、少し哀しい味がするのかもしれない。 

それでも、僕の愛情を受け取った人の心が温まるのならば、
それで良いのだ。

友達は、人間関係等、彼女が今抱えている色々な問題を僕に話しだした。

僕は、彼女の話を時間をかけてひとつ、ひとつ聞いてあげた。

別に気の利いたアドバイスをする訳でもなく、友達に意見をする訳でもなく、
彼女の話をただひとつ、ひとつ丁寧に聞いてあげるだけ。。

何時間かその店にいたけれど、一通り話をして、
友達は気落ちが少し楽になったのか、僕を見て、ふと微笑んだ。

美しい笑顔だったけれど、その笑顔もちょっと疲れて哀しげに見えた。

哀しげに笑うのは、僕だけじゃない。。

この世に生きる人々は、皆、それぞれ、何らかの哀しみを背負いながら、
それでも微笑んで生きているのだ。

ただ、僕は、友達には、彼女の笑顔が哀しげに見えた事は、言わなかった。

友達は、”貴方には、不思議な魅力がある。 
とっても大きなものに包まれるような気がして、
貴方に話を聞いてもらうと、不思議に気持が落ち着くの。”と言って、
また笑ってみせた。

僕も笑って、”いつでもどうぞ。”と言った。

勘定をすませ夜の街に出ると、ようやく雨は上がったが、
街は、冷たい夜気に包まれていた。

友達をアパートまで送った。

アパートの前で車を止めると、彼女は、”今日は、有り難う。 
お陰で気持ちのモヤモヤが少し取れた気がする。”と言って、
僕の頬にキスをして、”おやすみ。”と言った。

僕も、”おやすみ。”と言って、
彼女がビルの中に入るのを見届けてから、車を走らせた。

車を走らせながら、少し窓を開け、夜風にあたった。。
夜中過ぎの人気の無い交差点で、信号待ちをしながら、
僕は、煙草を取り出し、火をつけた。

煙を一つはいて、誰も座っていない助手席に向かって、
”僕の笑顔は、涙の色をしているのかな?”と独り言を言ってみた。。

何となく、彼女が助手席に座っているような気がしたから。
彼女が僕の右手を優しく握ってくれたような気がした。
僕は、その昔、彼女が座っていた助手席の、
彼女の膝の辺りに右手をそっと置き、
煙草の煙をもう一つはいて、車のアクセルを踏んだ。



2008年02月06日  シアトル行き

火曜日の朝のシアトルは、雨が降り出しそうな曇り空だ。
いよいよ僕の仕事は、新しい局面を迎える事になる。

中国の時は、兎に角相手が、自分の懐に入り込むまで、
我慢に我慢をして、懐に入った一瞬に一撃で相手を倒すと言う作戦だったが、
今度は、相手が違うので、またプランが違う。

今度は、一定の方向に相手を押しに押しまくる。
押しまくる事で相手の注意をその方向にそらす。
相手の注意がそれた瞬間のタイミングで、一気に方向を変え、
相手の懐のど真ん中に飛び込み、しゃにむに前進して、
突き抜け、そのまま逃げ切る。

今回は、最後まで押し続ける体力、
根性と一瞬のタイミングを読むバランス感と、
その後に相手の懐のど真ん中に飛び込む、度胸とある種の馬鹿さが肝になる。

馬鹿でなければ、こんな事は出来ない。
仲間を選ぶときに、ある男が僕に、”どうして俺を選んだんだ?”と聞いた。
僕は、そいつに笑いながら、”お前は、馬鹿になれるからだ。”と答えた。
そいつも僕の意を理解したようで、笑い出した。
でも、そういうことなのだ。
ある意味、馬鹿にならなければ、できない事もある。
信じ続ける事もある意味、馬鹿になる事なのかもしれない。
今回の相手も、僕らの100倍近い図体のでかい相手だ。
まともに組したら、僕達はひとたまりもない。

それでも彼らの心臓めがけて、僕達は体を寄せ合い、
錐のように彼らの体を貫こうと言うが、プランだ。

丁度、関が原の時の、島津維新のように、
わずか1000人で家康の本陣を抜いて一気に駆け抜ける。
島津軍で最後まで生き残ったのは、僅か数十人だったと聞いたことがある。
それでも、彼らの行動は、家康の度肝を抜き、島津恐ろしと言う事で、
結局、西軍につきながらも領地の没収を免れ、日本一の兵という栄誉を得た。
たまには、馬鹿になりきる事も、必要だ。
果たして、僕らの愚行は、吉と出るか、凶と出るか。。



2008年02月08日  まっすぐ走る。

今、まさに大方向転換をして、本当の狙いだった、
相手のど真ん中を突き抜けるべく、まっしぐらに走り出した所。。

転んだら負け。。
止まったら負け。。
頭が真っ白になるまで、まっすぐに突き進むだけ。。
あと少しで突き抜けられそうな気配。。
でも余計な事を考えると邪心が出る。。
何も考えずに、馬鹿になって、まっすぐ突き進むだけ。。



僕らは、ここ1週間馬鹿になって走り続けた。
何も考えず、ただ、自分達の誇りをかけてはしりつづけた
途中で逃げてしまった奴もいたが、
最後の独りになっても命の限り走り続けようとおもった。

気がついたら周りの仲間の数は減っていたけれど、
僕らは相手の体のど真ん中をつきぬけ
反対側にでていた。

ここ1週間ほとんど寝てなかったので
実感があまりなかったが気がついた時には
相手が僕らの前に屈していた。

僕らより、数百倍の相手で、交渉に出てくる連中も、
高そうなスーツを着込んだ連中が
高そうな弁護団に囲まれていた。

それに比べると、僕らはどうお世辞をいっても、
上品そうにはみえない、野武士の一団のようで
見るからに欠くが違うという感じがした。

一時はつぶされるかとおもった。
何日か形勢が悪い時に逃げ出した奴らもいて、
結局残った奴は半分もいなかった。

相手が屈したのを理解するのに暫く時間がかかった。
相手方が取締役会にかけるので半日時間が欲しいといった。
それで初めて闘いが終わったことがわかった。

取締役会の結果がでるまで結局1日待たされた。
ホテルにもどり結果を待つ事にした。
皆ねていないのでヘロヘロだったが、
結果が気になって眠りにつく奴は一人もいなかった。

僕は、残った奴らとホテルのバーに行き、
コーラを飲みながら先方の結論をまった。

i podを聞きながら周りの奴に気づかれないように
そっと彼女の写真をだしてそれを眺めていた。

ipodからは、little steven の undefeated が流れていた。

”俺はお前の写真をいつも肌身離さずもっている。
どうしようもない恐怖心に包まれた時は、お前の写真を触ってみる。
お前の写真は、自分の命が尽きるその最後の瞬間にみるものときめている。
ここから抜け出す唯一の手立ては打ち負かされることなく、皆と一緒に故郷に
帰ることだ。
俺とお前の間は何千マイルもの距離がある。海があり、砂漠が俺達の間をさえぎっている。
お前が俺を覚えていてくれたら。
何故って、俺はここで永遠に戦い続けなければいけねいかもしれないから。”

little steven の決して上手いとはいえないしわがれた唄声を聞きながら
写真の中の彼女の笑顔を眺めながら

”打ち負かされずに、皆と一緒に家に帰ろう。”

と口ずさみつづけた。

それからかなり待たされて、やっと相手方から連絡があった。
会議室に戻ると、相手方の責任者が
「そちらの提案のとおり、まとめさせてもらいたいと思います。」といった。

過程はともあれ、闘いが終わった時点で、相手に最大の敬意をはらう。
自分達の提案を認めてもらった以上、大枠以外はできるだけ相手の顔を立てて、
彼らの希望に沿うように譲歩する。
必要な終戦処理をして、契約書を修正し、僕は書類にサインをした。

そして長居は無用の言葉のとおり、風のように一気に引くのが僕の流儀だ。
相手のビルをでて、残った仲間に振り返り、僕は一言
「さぁ皆で家に帰ろう」と言ってわらって見せた。
皆もわらった。



2008年02月10日  週末は雨。。

神経と肉体をすり減らすような仕事が一段落して、
僕は、ひとりチェルシーのアパートに帰った。
この週末は、全てを忘れて体と心を休めたい。
流石にこの歳になると、この生活はキツい。。(笑)

ドアを開け、彼女との写真が沢山貼られた冷蔵庫から酒を取り出し、
瓶のままそれを飲みながら、荷物を床に放り出して、ソファに寝転がった。
ボトルを抱いたまま、ソファで寝入ってしまった。
僕を心の底から愛してくれた唯一の女性の想い出に包まれて、眠りに落ちた。
僕が心を許せる場所は、ここしかない。
結局、金曜の夜は、そのまま寝込んでしまい、翌日、僕は、ソファの中で目を醒ました。

今週は、水曜日の夜のフライトでロンドンに出かける。
14−19日とロンドンで仕事があるが、15日の夜の便で、
アイルランドのダブリンに飛び、週末はダブリンでゆっくりしようと思っている。

最近は、ちょっと自分を酷使しているので、今度の週末は、
ちょっとしたご褒美を自分にあげてもバチは、あたらないだろう。。

彼女との想い出の街は、たくさんありすぎるけれど、ダブリンは、その1つだ。
時期的には、寒いけれど彼女との想い出に浸りながら、
ダブリンの街をもう一度歩くのも悪くないだろう。。
久しぶりに、彼女が僕に会いに、地上に降りて来てくれるかもしれないし。。
そんな事を思いながら、今夜も一人酔っぱらっている。。



2008年02月19日  倫敦にて  ファーストクラス

2月13日の夜の便で、僕は、ニューヨークを後にし、ロンドンに向った。

バージン アトランティックの夜間飛行だ。
バージンのファーストクラスは、ちょっと変わっていて、
卵型のカプセルのような席に、窓を背にして座るようなレイアウトになっている。
ファーストクラスの真ん中には、マッサージ用の席/ベッドがあり、
乗客が、マッサージを受けられるようになっている。

自分の席と言うか、カプセルに収まり、スチュワーデスに
夕食や朝食等のサービスは要らないので、兎に角寝かせてくれと頼んだ。
飛行機が離陸次第、カプセルをベッドにして、毛布を貰い、6時間ほど熟睡した。
まるで映画のマトリックのような気分だ。
20-30人の乗客が、それぞれ卵型のカプセルベッドで葡萄のように連なり、
寝ている光景は、なんとも奇妙だった。
飛行機はかなり揺れたが、ロンドン時間の9時過ぎに、ヒースロー空港に到着した。
僕は、荷物がないので、あっという間に入管と税関を抜け、
タクシーに乗り込み、10時過ぎには、ロンドンのホテルにチェックインしていた。
僕のホテルは、マイフェアとボンドストリートにある。
ホテルで鍵を受け取り、熱いシャワーを浴びて目を醒まし、着替えをした。
仕事に出かける前に、何年か前に、死んだ彼女に貰った
バレンタインカードをベッドの傍らに飾ってみた。。

今日は、バレンタインデイだから。
彼女がいたら、新しいカードをくれただろうけれど、僕には思い出があるからそれでいい。

ベッドの枕元に、彼女のバレンタインカードを飾り、
誰もいないベッドに向って、”I Love You.”と呟いてみた。



2008年02月21日  アイルランド  彼女との思い出

13日の夜の飛行機で、ニューヨークからロンドンに移動し、
14-15日とロンドンで軽く働いた後に、
僕は、金曜の夜のフライトで、アイルランドのダブリンに向った。

ロンドンからダブリンまでは、飛行機で僅か一時間弱なので、
日本で言えば、東京から大阪に行くような感覚だ。

金曜の夜遅くにダブリンの空港に着き、タクシーに乗って、市内のホテルに向った。

アイルランドに来る人の多くは、民宿(Bed and Breakfast)に泊まるが、
僕は、どうも一人で気恥ずかしかったので、普通のホテルに泊まる事にした。

ホテルに着き、夜の街に出た。
テンプル バーは、ダブリン市内の歓楽街だ。
昔風の石畳の道の両脇に、沢山のパブが肩を寄せ合うように並んでいる。
大道芸人が、道でケルト音楽を演奏したり、見世物をやったりしていて、
雰囲気としては、ニューオリンズのバーボン ストリートを思わせる。。
僕は、そんな雑踏を抜けて、路地の裏にある小さなイタリアレストランに入った。
そこには、昔彼女と一緒に訪れた事があるからだ。
奥の席に案内してもらい、ワインと食事を注文した。
暗いワイン倉のような店内に、ロウソクの炎が輝いている。
そんな静かな店だ。
彼女との会話を思い出しながら、
一人で、思い出に耽り、ゆっくりと食事をした。

食事が終わり、街に出ると、
まだテンプル バーには、たくさんの人達が行き来をしていた。

僕は、タバコに火をつけ、少し川沿いを歩き、近くのパブに入って、
ギネスを飲みながら、地元のバンドの音楽を聴くことにした。
何をしても、いつも彼女との思い出が頭を離れない。。

時間がたつにつれ、楽しかった思い出は、より際立つようになり、
辛かった事も時間とともに、美しい思い出に変わっていく。
時間には、そう言った作用があるようだ。
ふと我に返って、ビールを飲み干し、僕は、パブを後にした。
かなり遅くなってからホテルに戻り、ベッドに潜り込んだ。
ベッドサイドのテーブルには、彼女の写真。
暫く、彼女の写真を眺めながら、明日はどうしようかと考えた。

ふと、車を運転して、アイルランドの海岸線を南に走ってみようと思った。
彼女と僕で、車を借りて、海岸線を南に走った事があった。

アイルランドは、日本と同じ、左車線なので、
右ハンドル車で左車線を初めて走る彼女は、
まるで子供のようにはしゃいでいたのを思い出した。

最初は、恐る恐る運転をしていたが、そのうち、大はしゃぎをしながら、
アイルランドの田舎道をフルスピードで走り抜ける彼女の横顔を見ながら、
何よりも愛おしいと感じた事を思い出した。。

彼女の写真に向って、”明日は、また車を走らせてみないか?”と語りかけ、
写真におやすみのキスをして、電気を消した。



2008年02月22日  Auberge

二人で旅行に出かけると、毎日夜が遅い事もあるが、
昼近くまでベッドの中でごろごろしており、
活動を始めるのは、いつも昼過ぎだった。

その日も、ホテルの部屋のカーテンを閉め切って、
カーテンの隙間から冬の柔らかい日差しが
ちらちらと差し込むのを横目で見ながら、僕は彼女とシーツの中に包まっていた。

ようやく意を決したように、彼女がベッドから起き上がりシャワーを浴びに行った。

いつもシャワーを浴びる順番は、彼女が先で彼女がシャワーを浴びて、
ドライアーで髪を乾かしてから、
僕がシャワーを浴びるという順番が決まっている。

これはニューヨークにいる時もいつもそうだし旅行をしている時もそうだ。

朝の準備は、女の人にとって男が考えられない程、
大切なものだという事を、僕は若い頃に恋愛で学んだ。(笑) 

このタイミングを間違えて、女の人のリズムを狂わせると、
機嫌が悪くなったり、つまらない事で喧嘩になったりしてろくな事がなかった。 

幾つかの恋愛で、僕はそれを体で学び、いつの頃からか、
朝の時間は、女性を優先して、
そのリズムを邪魔しないという僕なりの、生活の知恵を身につけた。(笑)

だから、僕は、彼女が髪を乾かし終わるまでは、そのままシーツの中に包まって、
TVを見たり、彼女と言葉を交わしたりとかして、待っている事にした。

ホテルの部屋は、寝室にドレッサーがついている事が多いので、
シャワーからあがってきたままの姿で、
無心で髪の毛を乾かしている彼女の美しい姿を眺める事もできるし、
朝の小一時間じっとしている事は、僕に取っては苦痛ではなかった。

ようやく彼女が髪の毛を乾かし終わり、僕もベッドから出て、
手早くシャワーを浴びて身支度をした。

簡単にベッドを掃除し、カーテンを開け、
僕らは、ホテルの部屋を出て、レンタカーを借りに出かけた。

今日は、二人で、ダブリンを抜けて、
海岸線のハイウェイを南に走る事にしていた。

二人の目的は、海岸線をドライブする事と、
アパートの壁に飾る事ができるような海岸の写真を撮りに行く事と、
アイルランドの古城と滝を見に行く事だった。

もっと朝早くにホテルを出れば、色々な所にいけるけれど、二人は、
いつも昼過ぎからでないと活動できないカップルだから、しょうがない。。(笑)

午後の柔らかい日差しを浴びながら、二人でレンタカー屋さんに出かけ、
小さな車を借りた。本当だったら、ロータス セブンあたりを借りて
、海岸線をぶっ飛ばしたら気持よいだろうけど、
そんな我侭が叶うはずものなく、僕らは、小型のコンバーティブルを借りた。

彼女は、右ハンドルの車も、左車線も運転をした事がなかったので、
ダブリンを抜けるまでは、僕がドライブをする事にした。

ダブリン市街地を抜け、M550という高速道路に入り、更にN11に乗り換え、
そのまま南にむけて走り続けた。

一時間程走った所で高速を降り、
湾曲する田舎道を海岸線を目指して走った。まだ冬で、
肌寒かったけれど、太陽の光があまりに気持よかったので、
幌を降ろして、風を感じながら田舎道を走り続けた。

暫くすると、左手に海が見え始め、とある海岸に車を止めて、
二人で海岸沿いを散歩した。 
小石を投げたり、お互いの影を踏み合ったり、
まるで子供のようにじゃれ合った。

ただただ彼女と一緒にいるだけで幸せだった。
その子供のようにはしゃいだ笑顔を見るだけで、
もういつ死んでも良いと思った。

海岸沿いのゴルフコースの中に入り込み、
二人で薔薇の生け垣の中を抜けて、砂浜に辿り着いた。

彼女は、そこでアパートの壁に飾る写真を何枚か撮った。
二人ともお腹が空いてきたので、海岸を後にし、
ウィックロウという海岸の近くの田舎町に立ち寄り遅い昼食を食べた。

メインストリートと言っても、パステルカラーに塗られた小さい家が、
肩を寄せ合うように並んでいるだけの小さな街だった。

僕らは、そこにある、ハンナという名前の小さなダイナーで食事をした。 
真っ赤なペンキで塗られた、小さなダイナーだった。
ダイナーの奥にある、暖炉の前のテーブルに座り、
二人で遅い昼食を楽しんだ。 

彼女は地図を広げ、これから出かける場所を指差し、色々とルートを探していた。
彼女は、ふと地図から顔をあげ、僕を悪戯っぽく見て、
”今度は、アタシが運転をしたい。”と言った。

僕は、”右ハンドルで左車線で大丈夫?”と聞いたが、
彼女が大丈夫だというので、
笑って、彼女の手のひらに車のキーを落とした。

運転席に座ると、彼女は、”本当に緊張する。”と言って僕を見て笑った。 
そして、僕の手を彼女の胸にあててみせた。 
本当に心臓が高鳴っているのがわかって、
僕も思わず笑ってしまった。

店の前に縦列駐車させた車を出すのに、四苦八苦したものの、
暫くすると、彼女はすっかり車の運転になれてしまったようで、
何度も何度も、僕の方を振り返っては、
”楽しいね。 こんなに楽しいとは、思わなかった。”と言って、
子供のように笑ってみせた。

僕らを載せた小型のオープンカーは、彼女の笑い声を振りまきながら、
アイルランドの田舎道を疾走した。

たまに反対車線を走っているときもあったけれど、兎に角、
子供のようにはしゃぐ彼女の横顔を見ているだけで、
僕は、彼女をアイルランドに連れて来たかいがあったと思い、とても嬉しかった。

二人で、古城や滝を探しながら、あちこちを走り回った。
日暮れ近くになって、グレンダロウという小さい街に辿り着いた。
そこでまた車を降りて、湖畔に佇む古い教会を見に行った。
日暮れが近くなると、流石に気温も落ち、肌寒く感じた。

僕は、彼女を自分のコートの中に抱き入れて、
二人で日暮れの森を散策した。暫くして古い教会を見つけ、写真を撮った。
川のせせらぎの上に煙る教会の写真はまるで墨絵の世界のようだった。

暫く、僕は、彼女の肩を抱いたまま、その教会を眺めていた。

暫くして、彼女が、僕のコートの中から顔だけ出して、
”そろそろ、帰ろうか?”と言った。
僕は、黙ったまま頷き、車に戻り、夜の帳が降りて来る中、
ダブリン目指して車を走らせた。。。

あれから何年かの時が経った。
僕は、あの時と同じ道を、今度は独りで走り抜けた。。

色々な想いが浮かんでは、消えた。
前と違うのは、僕の隣で子供のようにはしゃぐ彼女がいない事と、
あの時の溢れるような笑い声が聞こえない事だ。
でも胸に手をあてて目を閉じれば、あの時の風景が蘇り、
僕は、また微笑む事ができた。

きっと僕は、残りの人生をこうやって生きていくのだろうと思った。



2008年02月24日 日本行き ファーストクラスのエピソード

ヨーロッパから帰ってきてまだ4日もたっていないけれど、
今、ケネディ空港のラウンジで、この日記を書いている。

昨日は、久しぶりにまとまった雪が降った。

雪のお陰で、昨日は、飛行機がかなりキャンセルになったらしい。
お陰で空港は大混乱だったようで、
夜のニュースで何度もそのニュースが、流されていた。

僕の飛行機も影響を受けるかな?と思ったけれど、
幸い、僕の飛行機は、時間通りに飛ぶらしい。

今、ちょうどラウンジのグラホがやって来て、
どうしても一緒に座りたいといっているカップルがいるので、
僕の席を譲ってくれないか?と頼まれた。

どうせ、飛行機に乗っても、僕は寝るだけなので、
どの席でも同じなので、席を譲ってあげる事にした。

一緒に座りたがっているカップルと言う話を聞いて、
僕は、ちょっと微笑んでしまった。
そしてちょっと羨ましく思った。。(笑)

昔、僕も彼女と一緒に旅行に出かけるときに、手違いで、
僕はファーストクラスで、
彼女はエコノミークラスに手配されてしまった事があった。

彼女をファーストクラスにアップグレードしようと思ったが、
既にファーストが満席でどうにもならなかった。

そこで、僕は彼女と一緒にエコノミークラスに行き、
彼女の隣に座って、隣の席の人が来るのを彼女と待った。

暫くして、バカンスに出かける風の老夫婦がやってきた。 
男の人は、もっと後ろの席だったが、
女の人は、彼女の隣の席だったようで、僕を見つけるなり、
”そこは、アタシの席よ。”と僕を追い払おうとした。

僕が、そのおばさんに、
”彼女の隣に座りたいから、僕と席を替わってくれないかな?”と言って、
そのおばさんにファーストクラスのチケットを見せた。

今までは、とってもつっけんどんだったそのおばさんは、
突然、満面の笑みになり、自分の旦那さんに、
”アタシは、ファーストだから、向こうに着いたらまた会いましょうね。”と言って、
僕のチケットをひったくって、さっさとファーストクラスに歩いていってしまった。
周りの人は、よっぽど可笑しかったようで、
そのおばさんを見送りながら、皆笑っていた。。。
僕は、せまいエコノミーシートに体を丸め込み、
最愛の彼女の肩にもたれかかって、気持ちよく眠る事ができた。。
どんな小さなことも、あの頃の僕らにとっては冒険で楽しいイベントだった。。。
ラウンジのグラホの説明を聞いていて、その時の事を懐かしく思い出した。
僕は、これから日本に向います。







2008年03月03日  出会いと別れ

土曜の朝にニューヨークを出て、日本で忙しく一週間を過ごした。
アメリカにいる時も忙しいのだけれども、日本にいる時は、
四六時中誰かが一緒にいる事もあり、
なかなか自分の時間を見つける事ができない。

仕事を終え、金曜の最終の飛行機でニューヨークに戻って来ると、
ニューヨークには、雪が舞っていた。

べとっとした雪だったので、積もる事はなかったけれど、
ニューヨーク市内でも視界を遮る程の雪だった。

僕は、チェルシーのアパートの近くの日本レストランで日本食を食べ、
日本酒を少し飲んだ。
日本から帰って来たその日に、ニューヨークの日本食に行く必要はないのだが、
アパートから近いという事と、時間がかからないという理由で、
忙しい時や疲れた時は、ついついそのレストランに出かけてしまう。

一人で、酒をつぎながら、日本での仕事の事などを考えた。

まず、日本に行く前に、僕は、ヨーロッパで起死回生の成功を収めた会社の
経営権を元の従業員達に返した。
僕が、その会社の経営権を買い取った時には、
赤字が山積し、従業員のモラルも低かったが、
新しい経営方針を示し、3年間死ぬ気で働いた。
黒字に転換するまでは、かなり時間がかかったが、
最後の賭けに出たヨーロッパで、
やっと幸運の女神に微笑んでもらえる事ができた。

この会社は、もう僕なしでやって行ける。 
そうなったら、僕がここに長く残るより、
やる気の戻った元の従業員達に経営権を返すべきだ。 
そうしないと、自分たちの勝利を自分の体で確認し、
自分たちの足で歩いて行く事ができない。

僕は、自分の意思を経営陣に伝えた。 
従業員側も僕が去る事に不安を感じたようで、慰留をされた。
だけれども、僕は、送別会を開いてくれた従業員達にこう告げた。。

”別れには、辛い別れもあるけれど、こういう晴れがましい別れもあるのだ。
僕らは、3年間死ぬ気で働いて、ようやく今日の成功を勝ち取った。
これは、僕らの勝利であり、君らの勝利である。
これからは、君たちは、この勝利に自信を持って、
どんどん自分たちの考えで、自分たちの足で歩いて行って欲しい。
この勝利は君らのもので、これからの会社の将来は、君らが作るのだ。
僕は、僕の道を行く。 君らは、君らの道を自信を持って歩いて行って欲しい。
僕は、君らと出会えた事を心から感謝しているし、
この3年間、君らと一緒に働けた事を誇りに思います。”

従業員達も僕の意図を理解してくれたようで、涙もあったけれど、皆、快く僕を送り出してくれた。
そして僕は、日本に行って、新しく会社を作った。
わずか30人の小さい会社だ。
今回、日本に行った目的は、
その会社の新しい企業方針を作り、作戦を練り、従業員達と話をする為だった。

日本に着いた翌日の月曜日に、全従業員を集めて、これからの事業説明をした。 
今回のメンバーの大半は、20代後半から30代前半の若者達を集めた。 
過去に色々異なった仕事をしてきた若者達だ。 それに、僕が信頼をする古参のメンバーを4人集めた。
この4人のメンバーは、僕と10−20年の付き合いで、
それぞれが100億円以上のビジネスを育てた事がある歴戦の猛者達だ。
今回の会社の仕組みは、若いメンバーそれぞれに一億円の予算を与え、
自分たちで、得意分野でビジネスモデルを考えさせ、
僕が認めたものは、事業化をする。

僕が、最初に大きな企業買収をしたのは、30代半ばの事だった。
多額の借金をして会社を買い、その会社の企業方針を大転換し、
マイ◯ロソフトとの大訴訟を生き抜き、脳漿を絞り出し、
全身全霊をかけて走り抜けた。

30代半ばで、そんな経験をした事で、
僕の人生観や、考え方は大きく変わったような気がする。

その時に、僕にチャンスを与えてくれた人達がいた。
僕のアイディアに理解を示し、投資をしてくれた人達だ。
だから、今度は、僕が若い人達にチャンスを提供する番だと思った。

僕は、全員を集め、会社の企業方針を説明し、
それぞれのメンバーの役割を伝えた。
これから半年間、それぞれが、自分たちの得意分野で、
ビジネスモデルを考える。事業戦略、財務、
マーケティング等の必要なリソースはその都度僕の方から提供する。

最初は、一人一人で考えさせるが、そのうち、
仲間同士で、アイディアを1つにまとめても構わない。

優秀なアイディアには、年間1億円の予算をつけ、事業化に挑戦する。
半年ごとに状況を確認し、必要があればプランに修正をするが、
アイディアをまとめた担当者は、そこから逃げる事はできない。

最後まで責任を取るというのが、ルールだ。
企業方針とプランを伝えると、若者達の表情が変わり、
熱気をおびて来た事を肌で感じる事ができた。

今の若者は、熱意が無いなどと言われる事があるが僕はそうは思わない。

少なくとも、今回メンバーになった若者達は熱気に満ちあふれた人達だった。
5年後に300億円の事業規模にすると宣言して僕のスピーチは終わった。
皆、動揺したけれど、僕には、秘策がある。。。
そうやって出会いと別れを繰り返しながら、僕の人生は、続いていくのだろう。
最愛のあの人にもう一度逢えるその日まで。。




2008年03月05日  一本の道

僕が経営権を持つカリフォルニアの会社にいる天才プログラマーのビルの話は、
一年ほど前に日記に書いたので、まだビルの事を覚えている人もいると思う。

彼は、黒人の天才プログラマだが、複雑な家庭環境に生まれ、
刑務所に収監されている身内の世話や、両親の世話に追われ、
ファミリーの全ての問題を一身に背負って生きている男だ。

僕は、彼のプログラミングと、その真摯な姿勢に感動し、
三顧の礼で彼をカリフォルニアの会社に迎え入れた。
彼の家庭環境も考慮して、ファミリーの住んでいるデラウェアで
在宅勤務をする事を認め、カリフォルニアの会社には、
来れる時に来れればよいと言う破格の待遇だった。

彼も、僕の配慮が嬉しかったのか、その働き方、
僕と会社に対するコミットメントは、群を抜いていた。

最後の望みをかけたヨーロッパのプロジェクトが、
上手く行った事もあり、この会社は、ようやく軌道に乗り、
僕は、35人の従業員に40億円のボーナスを出した。 
そして、40億円をどう35人で分配するかは、生え抜きの重役に一任した。

僕は、きっとその重役は、重役達の間で、40億円の大半を分配し、
一般の従業員には、配当が少ないのだろうなと思っていたのだが、
なんと、その重役は、40億円を35人に均等に分配した。

だから、会社の実質的な社長を務める重役も、
会社の掃除をしている従業員も、皆、均等に1億円ちょっとの配当を受けたらしい。

僕は、ちょっと嬉しくなって、その重役を呼びつけて、
その顛末を彼に聞こうとしたが、彼は、照れ笑いをしたままで、
結局、その話を僕にする事はなかった。。

良い奴だな。。と思った。 
この会社も、そろそろ僕の手を離れる時が近づいている気がしてきた。

きっと、この男に後を託せばこの会社も大丈夫だろうと言う気がした。。

配当の1億円ちょっとを貰って、ビルは、生まれて初めて休暇を取り、
ニュージーランドに向った。 僕を義理の兄と思っている彼は、
旅先から頻繁にメールと写真を送ってくる。 
僕は、彼の写真を見ると、自分も彼と一緒に旅行をしている気がして、
どうしても口元が緩んでしまう。

初めて休暇を満喫している彼のメールは、
踊るような調子で、彼がいかに旅を楽しんでいるかが手に取るように判る。

僕は、昔、彼女とニュージーランドに行った事があるので、
その時に行った場所を彼に教えた。
律儀な彼は、僕が教えた場所を全て訪れ、
写真を撮っては、僕にメールをしてきてくれた。。
彼の送ってきた写真は、どれも懐かしいもので、
僕は、彼女と旅行に出かけたときの美しい思い出を、
胸に思い浮かべ、知らない間に涙を流していた。
美しい自然を眺めていると、あの時の、
楽しかった彼女との一秒一秒が、思い浮かんでくる。。

本当に楽しかった。
彼女と一緒にいるだけで僕は、他に何もいらなかった。
彼女の笑顔を見ているだけで、僕の心は満ち足りていた。
彼女の笑い声を聞けるだけで、僕は夢見心地になった。
彼女が、僕の世界の全てだった。
ビルが送ってきた写真の中に、
懐かしいニュージーランドの山の風景の写真があった。
緑の中を一本の道が山まで続いている写真だ。。
何処までも続く一本の道。。
この道をどこまでも、どこまでも歩いていきたい。
そんな人生を僕は、送りたい。

自分が信じた一本の道を、命の続く限り、何処までも、何処までも歩いていく。
そんな一途な人生を歩んで生きたい。。
そう思った。

ビルは、これからどうするのだろうか?
もう彼は、会社に帰ってくることはないかもしれない。。
彼が幸せならば、それでも構わない。。
彼には、彼にしか見えない一本の道がある。
君は君の道を行け。。 僕は僕の道を行く。。



2008年03月07日  心が疼くとき

大事な人の助けになりたい。
大事な人を幸せにしたい。
僕が、生きる目的は、ただそれだけだ。

僕の人生に自分はない。 
あるのは、大事な人の笑顔を見たいと言う一点だけだ。。
昔、彼女が自分の将来を考え、息詰まっていた時があった。

或る晩、二人でベッドに入って、眠りに落ちるまでに色々話をしていたら、
彼女が自分の将来への不安を訴え、
今の自分の現状に憤りを感じ、背中を向けて泣き出してしまったことがあった。

僕は、彼女の助けになりたかったのに、何をしたら良いのか判らなかった。
自分の一番大事な人が苦しんでいるのに、
その隣で僕は、何もする事ができないと痛感させられるのは何よりも辛かった。

いつも笑顔を見ていたい人の顔から笑顔が消え、
ベッドの中で背中を向けてすすり泣いているのに、僕は全く無力だった。

僕らは、電気を消したまま、ベッドの中で話し続けた。。
彼女が泣きつかれて眠りに落ちるまで、僕はそのまま話を聞き続けた。
彼女が起きている間は、我慢をしていたが、
彼女の寝息が聞こえてくると、我慢していた涙が頬をつたって流れ落ちてきた。

助けたい人を助けられない無力感が、僕を打ちのめした。。
大好きな人を幸せにできない無力感。。
大好きな人に笑顔をあげられない無力感。。

翌朝、彼女は目を醒ますと、昨日の涙はなかったかのように、
いつもの彼女に戻っていた。

仕事場に行くついでに、彼女を大学まで車で送った。 
大学に着き、車を降りるときに、彼女は、”行って来ます。”と言って、
キスをして微笑んだ。 僕も彼女に向って微笑んだ。
大学の校舎の中に消えていく彼女を見送りながら、なんとも言えず、
心が疼いた事を、まるで今朝の事のように覚えている。。

僕が、彼女と暮らして学んだ事は、どんなに大切に思って、
どんなに愛していても、自分ではどうにもできない事があると言う事だった。

悲しいけれど、それが現実だ。。
そのどうしようもない現実を受け止めた時、僕は、それでも彼女の隣で
彼女の哀しみや憤りをともに背負って生きる覚悟を決めた。 
何もできない事を知りながら、それでも同じ痛みを感じる事で僕の愛情を示そうとした。。

あれから時が経ち、僕は、いまここに独りきりで立ちつくしている。。
あの時の心の疼きを抱えたままで。。
大好きな人には、心の底から笑顔でいて欲しい。
そんな一つの願いも叶わなかったけれど、今度、君にまた巡り会えたら、
今度こそは、全身全霊を込めて、君に笑顔をプレゼントさせて欲しい。。
それまでは、僕は、この心の疼きを抱えたままで歩いていこう。



2008年03月08日  全てを投げ出したいと思うとき

最近、彼女の事を色々と思い出し、考える時間が多くなってきている。
そして、彼女の事を恋しいと思う気持ちが大きくなってきている。

その気持ちを忘れようとして、自分を極限まで追い詰めたり、
忙しくしたり、人の世話をしたりしてるけれど、
彼女を恋しく思う気持ちがどうしようもなく大きくなってきている。
こんなに辛いものだとは思わなかった。

全てを放り出して誰も知らないところに消えてしまいたいくらいだ。

昨日も夜遅くまでウィスキーを飲みながら神様にお願いをしてみた。
はやく彼女の所に連れて行ってくださいって。

色々な夢を見るけれど朝になると
僕はいつものように目を醒まして隣に彼女はいない。
彼女の想い出には包まれているし、熊のぬいぐるみもいるけど、
僕は彼女に触れることができない。

また、いつものように1日がはじまり、
僕は僕が守るべき人達を守るべく1日全力で働きつづける。

僕には守らなければいけない人がいるし、
やらなければならないことがあるから、ここに踏みとどまって
そのために、全身全霊をかけて闘い続けるけど
いつも心の中は、空虚で思いは1つだけだ。

いつかきっと神様が僕の願いをきいてくれて
僕を彼女のところにつれていってくれるだろう。
ただ、できればちょっと早めに連れて行ってくれたらうれしいな。

そのためには、もっと人の為に尽くすから、自分を捨てて人の為に生きるから、
だからちょっと早めに、ちょっと早めに僕を連れて行ってください。



2008年03月14日  向上心

もうそろそろMIXIを始めて丸2年が経とうとしている。
本当に時が経つのは、早い。
あれから2年経って、僕は、少しは変わったのだろうか?
大人になっただろうか? 少しは成長しただろうか?
ちょっと考えてみたけれど、結局、僕は、この2年で全く成長していない気がする。。(笑)
変わった所と言えば、白髪が増えた事くらいかも知れない。。

昔、彼女は、僕に、”アタシは、貴方と一緒に成長したい。”と言った。 
それが、彼女なりの僕に対するプロポーズの言葉だったと、僕は勝手に解釈している。
心の底から愛している人と、一緒に年をとり、一緒に成長できたら素敵だろうな。。

人は、成長しようと言う気持ちがある限り、若くいられる事ができると彼女は言った。
誰よりも純粋で、温かみがあり、向上心に満ちた人だった。
心が萎えてしまいそうな時、僕は、彼女の言葉を思い出す。
そして、向上心を取り戻そうとする。
明日は、今日より、もっと優しい自分でありたい。
明日は、今日より、もっと人の役に立ちたい。
僕にとって、向上心とは、そういうことだ。
一日が終わり、アパートに帰って、ウイスキーに溺れながら彼女に話しかける。
今日は、こんな事があった。。
今日は、こんな事をした。。
今日は、こんな風に思った。。
そんな風に一日を振り返り、彼女に報告をする。
まるで彼女が、赤いソファの端に座っているかのように、僕は一人話し続ける。。。 
ウイスキーの海の中に溺れてしまうまで、僕は、毎晩、彼女に話し続けている。。



2008年03月16日  自分が嫌になった

今日は、思いもかけず人を傷つけてしまった。。
自分が、本当に嫌いになった。
人との絆を築くには、長い間の真摯な気持の積み重ねで、
少しずつ、少しずつ信頼を築いていくものなのに、
それを壊すのは、いとも簡単に一瞬で壊してしまう。。
きっと今日の出来事は、僕の一生の心の傷になるんだろう。

2008年03月17日  別れ  里子とフィリピン人の女
昨日は、あんまりショックだったので、
詳しく日記に書く事ができなかったけれど、
僕が里子をしているある母子家庭との別れがあった。

母親は、フィリピンからの不法入国者で、六本木の店で不法就労をしていた。
癌にかかった母親の手術代と薬代を稼ぐ為に、
18歳の若さで片道切符を手に入れ、マカオ、
香港経由で日本に不法入国をした。

その手の不法入国を斡旋する組織が経営する店で不法就労を続けた。
日本に来て彼女は必死に金を貯めたが、まとまった金ができる前に、
彼女の母親は、癌で死んでしまい、父親もその後、すぐにこの世を去った。

日本に不法入国をして2年で、その女は、生きる目的を失った。
その後、何回か店を変え、
店の店長として働く日本人と恋仲になり一緒に暮らし始めた。

その頃が、その女にとって一番幸せな時期だったのだろう。
日本は丁度バブルのまっただ中で、六本木は不夜城と化し、
夜の街で働く女に、金にものを言わせた日本人の男どもは、金を注ぎ込んだ。

そうやって得た金を、女は、一緒に暮らしていた男に注ぎ込んだ。
二人の間に子供が生まれたが、男は女を籍に入れる事は無かった。
やがてバブルがはじけ、男は、事業に失敗して借金を抱え込み、
借金取りに追われる日々が始まり、男は、やがて別の日本人の女を作り、
結局、フィリピン人の女は、生まれたばかりの子供と路頭に迷う事になった。

僕の知り合いの組織のとある人が、不憫に思い、
自分の店でその女を雇う事にした。

僕は、前からその女を知っていたが、
その知り合いの人と会う為に、彼の店に出向いた時に、その女に再会した。

知り合いの人は、義侠心の強い人で、そういった境遇の人達を不憫に思い、
自分の店で雇ったり、色々と世話をしていたが、やはり夜の仕事なので、
小さい子供がいると、なかなか環境に問題があったので、
真面目に働いて、子供の面倒をちゃんと見るという約束で、
僕は、彼女に昼の仕事を斡旋した。

一人を助け始めると、世の中には、
そういった境遇で満足に学校にもいけない子供達が沢山いる事を身を以て知った。
一人に関わるのであれば、百人に関わるのも同じだと思った。
それから僕の里子達との関わりが始まった。。

その後、何度も入国管理局とやりあい、逃げた男どもとやりあい、
最後は、彼らが、自分たちの足で再び立ち上がる事ができるように、
自立できるように、築地に生鮮食料品を梱包する会社まで作る事になった。

僕と里子との関わりを作った母親も、この会社で働いていた。
当時生まれたばかりだった女の子も3年生になった。

ここでは細かくは書けないけれど、その母親が、色々と問題を起こし、
僕はそれをなんとか今の枠組みのなかで収拾しようとしたけれど、
彼女の方から、飛び出して行ってしまった。

理不尽な事を言い続けるので、僕も毅然とした立場で、
できる事とできない事を説明した。 
自立をする為には、ルールに従わなければいけない。

結局、母親は、今の状況では満足できず、
僕の所を飛び出して昔の友達の所に戻る事にした。
そして当然ながら、娘も連れて行く事になった。

昨日の朝に、娘から電話があった。
まだ小学3年生の子供だ。。
電話口から彼女の声。。

泣きじゃくりながら、”おじさん、今まで有り難うございました。”と言った。

僕は、彼女にわかるように、
”僕は、いつもここにいるから、困った時には、いつでも相談するよう”に言った。 
そして、”僕の愛情は変わらない”と言った。

娘は、なきじゃくりながら、”さ、よ、う、な、ら。”と言って電話を切った。
僕は、電話を握りしめながら、途方に暮れた。。
僕は、ボランティアを子供達の為にやっている。 
子供達が、力強く生きていけるようにできる事をしたいと思っている。
僕にとっては、子供達の親は、子供に付随するものでしかない。
でも、子供達が親との絆を必要としている限り、
親達に自立をして貰わなければならない。

今回は、そこを母親に理解してもらえなかったようだ。。
正直言って、あの母親についていけば、娘は相当苦労するだろうと思う。
だけれども、それでも母親は、母親なのだ。
そこには、他人の僕が踏み込んではいけない一線があると思うのだ。
ただ結果として、わずか9歳の女の子の心を深く傷つけてしまった事は、
言い逃れのできない事実だ。

大人同士の意見の食い違いならばまだしも、
無垢の子供の気持を深く傷つけてしまった罪の意識が、
僕の上に重くのしかかった。
結局、あれから何も食べられず、ただ酒だけを飲んでいたが、
全く酔う事ができなかった。。
僕が、我慢をすれば良かったのかな?と考え続けた。。
あれからずっと、子供の声が、僕の耳から離れない。。



2008年03月19日  目指したもの

今日は、気分を変えたくて、
仕事場にアイルランドで取った写真を飾ってみた。
昔彼女が撮った写真を白黒に加工して引き伸ばしてみた。。

雨に煙る幻想的な教会の写真だ。。
透明の額縁にいれ、壁にそれを飾り、暫く黙ったまま写真を眺めた。

彼女との思い出が、脳裏に浮かんでは、消えた。
今、ここに彼女がいてくれたら、きっと僕を優しく包んでくれるだろう。
そんな気がした。
一生懸命やっているのに、自分の思う方向とは逆の方向に
どんどん進んでしまう自分の現状を考えると、途方にくれてしまう。。

僕には、彼女の助けが必要だ。
僕をだまって優しく抱きしめてくれる温もりが必要だ。
どうして、こうも行きたい方向と逆の方向へどんどん進んでしまうんだろう。。
もがけばもがくほど、逆効果だ。。
それでも、仕事では、僕は立ち止まる事はできない。
半ば強引に皆を引っ張っていかなければいけない。
まだチャンスは、残っているから。。
約束した場所に一人残らず皆を連れて行くのが、僕の使命だから。。

張り裂けそうな気持ちを抱えながら、僕は、なんとか冷静さを取り戻そうと、
アイルランドの写真を眺めながら、ゆっくりとコーヒーを飲み干した。

来週末からは、日本と上海に行かなければいけない。
そして上海から帰れば、直ぐにヨーロッパだ。
立ち止まったらおしまい。。
だから、ヘロヘロになっても足を前に出す。
前を向いて、上を見上げて、歩き続ける。
目指したものだけを見据えて、歩き続ける。
たとえ目指したものに辿り着けなかったとしても。。。

2008年03月20日  ワイルド・サイドを歩け
ここしばらく、心にずっしりとのしかかるような事が、
色々あって、凄く気持ちが沈んでネガティブになっていた気がする。

どうにもならない現実をどうすることも出来ないで、
逝ってしまった彼女に救いを求めたりもした。。

アパートに帰って、鏡に映る自分の姿をふと目にした時に、
なんとも疲れきって、なんともみすぼらしい自分に気がついた。

今の僕は、彼女が愛した僕ではない。
挑戦する気概を失くし、雨に濡れた負け犬のような僕。。
何となく、目が醒めたような気がする。
彼女は、最後の最後まで諦めず、
頑固に強気で闘い続ける僕を愛してくれたいたのだと思い出した。

45歳になって、妙に丸くなって、人生を悲観しているような
今の僕をみたら、きっと彼女は、そっぽを向いてしまうだろう。

だから僕は、自分を奮い立たせて、自分の歳も忘れて、
昔のように、気概に満ち、力強く、立ち上がらなければいけないと思った。

これは、彼女の為であり、僕の為でもある。
僕の人生は、僕のもの。。 ならば、その時間を無駄にすることなく、
自分の夢や使命に向って全力で前進しなかればいけない。

意気消沈して膝を抱え、過去を思い返して涙するのは、もうおしまいにしよう。
無理をしてでももう一度立ち上がり、一心不乱に暴れまわってみようと思った。
縮こまって悲嘆にくれる僕は、僕ではない。
そう思ったら、自分の心の中の迷いがなくなったような気がする。
ワイルド・サイドを歩いてこそ、僕なのだ。



2008年03月21日  東奔西走

昨日は、久しぶりに若い日本人の連中を連れて
韓国人街に韓国焼肉を食べに行った。

僕はあまりこちらで日本人と付き合うことはないが、
それでも少しの日本人を知っている。
どれも若い人たちで、自分の夢を実現しようとニューヨークで頑張っている連中だ。 
そういう人達とたまに会って、
食事をしながら色々話を聞いて相談にのるのも、僕ら年寄りの仕事だと思っている。(笑)

僕も外国で一人で道を模索している時に、
色々な人に助けてもらったり、助言を貰った。

今度は、僕が次の世代にお返しをする番だ。 そうやって、前の世代から次の世代に、
どんどん善意を伝えていけば、我々日本民族が外国で生き延びていく事ができる。
歴史を紡ぐという事は、そういうことなのだろう。
自分が世話になった倍の恩返しを次の世代にするぐらいの気構えで、
次の世代の人達に尽くしていくべきだと思う。

成功は、全て自分の努力の賜物だと誤解して、
人に恩返しをしない人がいるが、それは間違っていると僕は、思う。
たとえ天涯孤独な身の上だとしても、
人の助けを借りずに一人で大きくなった人はいない。。 
そういう事なのだと思う。

僕も若い人達の夢に溢れた話を聞くと、
逆にアイディアを貰ったり、元気を貰ったりする。
だから、僕にとっても彼らと話をする事は大事な事なのだ。

と言う事で、今回は、7人ほど連れて、
エンパイア ステートビルの近くの韓国人街に出かけ、
そこで韓国焼肉とJinroをたらふく食べた。
そんなに綺麗な店ではないけれど、地元の韓国人が通う味は、ぴか一の店で、
炭火を囲んで皆で焼肉を焼くのは、なんとも言えず楽しい。

一人は、まだ20代の女性で、日本のデザイン事務所を飛び出し、
単身でニューヨークに渡り、
音楽関係のグラフィック デザインの仕事に打ち込んでいる。 
貪欲な姿勢と、
斬新なアイディアで、徐々にメジャーのアーティストからの依頼が、
入り始めているようだ。
もう一人は、30代前半の女性で、アメリカの映画会社に就職し、
映画のMarketingの仕事をしている。 
まだニューヨークに来てから数年のようだが、ハーレムに住み込み、
映画の仕事でコネを作ってから、虎視眈々と自分のビジネスのチャンスを狙っている。

若い人は、良いなとつくづく思った。。
失敗を恐れない、あのガッツは、心底尊敬するし、
良い意味での貪欲さ、ハングリー精神が、
彼らのギラギラとした眼差しから感じられた。

日本の若い人も捨てたもんじゃないなと思い、嬉しくなった。
そして僕も負けていられないなと思った。

あの頃のように、ギラギラとした抜き身の刀のように、
あの頃の危ない自分に戻れそうな気がした。

土砂降りの雨もいつの間にかあがり、
僕は、酔い醒ましに、韓国人街からチェルシーのアパートまで歩いて帰った。

酔いを醒ますように、今度の仕事の仕掛けを色々と考えながら歩いた。
4月は、地球を2週する。
日本に2回、中国に1回、そしてヨーロッパに2回。。
僕にとって地球は、とっても狭い。

世界各国に色々と仕掛けを作り、ドミノを倒すように連鎖反応の作戦をねる。 
シナリオを書くのは、脳漿を搾り出すような緻密な作業だし、
脳みそを雑巾のように絞りだすほど考えなければならないし、
シナリオどおりに世の中を動かすには、常軌を逸したスケジュールで
人の裏をかきながら行動しなければいけないので、度胸と体力が勝負になる。 

この二つの作業をすると一気に髪の毛の半分が白髪になるほど体力、
胆力、知力を使い切るが、上手くシナリオどおりに
ドミノが全て倒れた時の達成感は、何事にも勝る快感だ。

若い連中には、まだ負けていられない。
僕は、僕の闘い方で、もう少し暴れまわらないと。。
高みはまだ先にある。。



2008年03月22日  恋愛上手 彼女からの初キス

実生活の僕は、恋愛下手だ。。
惚れっぽいにも関わらず、好きな相手に告白をする事ができない。
いっつも相手が痺れを切らして、僕の所からいなくなってしまうか、
相手の方から告白をしてくる。。

だから必然的に、僕が付き合う女の人は、
全員、自分から告白してくる事を厭わない強い女性になる。(笑)

彼女と付き合い始めたころも、前から好きだったのに、
僕は、彼女に好きだと言う事ができなかった。
何かのきっかけで二人だけで食事に行く機会があり、それから1週間に一度、
二人だけで色々な場所に食事に出かけるようになった。

そんな食事をして家まで送るというだけの関係が、半年以上続いた。
或る夜にステーキハウスに食事に行った後に、彼女を家まで送るので、
僕と彼女は二人で僕の車まで歩いて行った時に、
横にいた彼女が急に僕の腕に彼女の腕を回してきた。

その時の、彼女の燃えるように赤いジャケットの色を今でも僕は鮮明に覚えている。
そして彼女の家まで彼女を送った時、別れ際に、
彼女は僕にそっとキスをしてくれた。

ずっと後になってから、彼女にそのことで随分からかわれた事がある。
”あれだけ二人で食事をしたんだから、貴方は、
絶対アタシの事を好きに違いないって確信してたんだけどね。”と言って、
笑った彼女の笑顔を今でも覚えている。

仕事だったら、どんな厚顔無恥な事も平気なのに、
自分の事になると、滅法奥手の僕なのだ。。

情けないけれど、こればっかりは、性格だから今更変える訳にもいかないし、
こんな僕を好きになってくれる人もいるわけだからね。。




2008年03月28日  アルマゲドン

明日の朝の飛行機で、日本に行って、東京で一週間働いてから上海に行く。
まだ何も用意していない。。。 
東京は、もう暖かいから、薄いコートもいらないのかな?

今回は、僕にとっては、割りと楽な仕事だ。
日本は、僕の日本の会社をまわって内部の意思統一をするのと、
若い社員達に宿題を出しているので、その結果を聞くのが仕事だ。 

日本の若い社員達に刺激になれば良いなと思って、アメリカから5人程、
僕と長年一緒に働いている猛者連中を連れて行って、丸一日彼らと議論をさせる事にした。
5人とも、体が大きいので、僕らが一緒にいると、凄く目立つ。(笑)
僕らは、殆どスーツなんか着ないので、仕事にでかけて、5人でエレベータに乗っていると、
殆どの場合、途中でエレベータが止まっても、皆怖がってエレベータに乗って来ない。(笑)

皆、性格のいい奴らなんだけど、やっぱり、見かけで判断されるのかな?
ある時に、仕事で会議に出かけて、エレベータから5人で出て来た所を、
相手の会社の受付の人が見て、
”映画のアルマゲドンの一場面かと思いました。”と言って笑った。

あの、ブルース ウィルスと仲間達が、ロケットに乗り込む為に
エレベータから出て来るシーンの事を言っているらしい。。
 あんなに、柄は悪くないだろうと思ったけれど、
受付の人があまりに真顔だったので、
皆で腹を抱えて笑った事を思い出した。。。

今回の宿題の発表で、優秀な奴は、
アメリカにつれて帰って1−2年アメリカで働かせてみようと思っている。
予算を1億つけて、僕の手元のアメリカの人材を2−3人つけて、
日本の若者に、1−2年、こちらで死ぬ気で闘わせてみようと思っている。

問題は、それだけの気概がある若者がいるかどうだかだけれども、
それは、今週のお楽しみだ。。
どうなることやら。。。



2008年03月29日  ハードボイルド

明日から、10日程かけて日本と中国をまわる。
前に日記に書いたが、4月は、地球を二週する事になる。

僕は、こんな旅芸人のような生活を二十年近く続けている。
荷物をまとめていると、いつも、
僕の定住の場所は一体何処にあるのだろう?と考えてしまう。

結局、僕は何処にも属していないのかもしれない。。。
でも、旅に出ている間だけは、僕は、強い男でいる事ができる。
それは、守らなければいけない人達の顔がみえるから。。
それは、僕を信じてついて来る人達の顔がみえるから。。
だから、僕は自分の弱さを忘れて強い男でいる事ができる。
ふと弱い自分に戻るのは、一日の最後にホテルの部屋に戻り、
ウイスキーグラスを片手に煙草に火をつける時だけだ。

だから明日からは、強い男になろう。
自分の哀しみは、全て心の底に押し込んで、
信じてくれる人達の為に、優しく微笑んであげよう。

それが男の生き方だと僕は思っているから。。。
そんな微笑みでも、周りの人を元気づける事ができれば、
僕の人生は、それだけで意味のあるものになるのだろう。。

そう信じたい。。
本当は、誰かに優しく抱きしめて欲しいけれど。。
本当は、誰かに”大丈夫だよ”と言って欲しいけれど。。
本当は、誰かの温もりを感じながら眠りに落ちたいけれど。。
人の為に闘い続けるのが僕の人生だから。
その先に、何かが見えるかもしれないと期待しているから。
だから、弱い僕の本当の姿は、この10日間程、
クローゼットの奥にしまって鍵をかけておこう。

そして哀しい分だけ、周りの人に、微笑みを振りまき、愛を注ごう。
それが、僕の生き方だから。。
それが、僕のハードボイルドだから。。






2008年04月06日   上海は、雨 コールガール

金曜の夜に上海についてから、ずっと雨が降っている。
雨と言うよりは、霧雨といった方が良いかもしれない。

近代的な高層ビルと、伝統的な中国建築の入り混じる街並みを、
青いネオンで彩られた高速道路が走っている街を眺めていると、
一昔前のSF映画の一場面を見ているような気がする。

JWマリオット ホテルの僕の部屋は、地上80階にある。
この今にも折れてしまいそうな華奢なビルの80階から下界を見下ろす気分は、
まるで死んだ後に、天上から下界を見下ろすような気分だ。
黄浦を挟んで、新天地が霞んで見える。。
電飾に輝く船が、黄浦を右に左に走っている。。
今回は、僕がアメリカから連れてきた8人のうち、2人を中国まで連れ来た。
 そのほかに日本人を何人か連れてきて、ヨーロッパと中国の人間と、
上海で合流したので、僕は、15人の仲間に囲まれている。
中華料理を食べるには、やはり大人数がいい。
15人もいると、店の大体の料理は、食べる事が出来るし、
酒も、ワインから、中国酒まで大体飲んで見る事ができる。

昨日の夜も黄浦沿いの中華料理屋で、
川と新天地を眺めながら楽しい時間を過ごした。
そんな楽しい賑やかな時間の中で、ふとした時に、僕は、絶対の孤独を感じている。
仲間と笑いながら、ふとシャンパングラスを見つめた時に、
その黄色い発泡酒の泡を眺めながら、どうしようもない孤独感に襲われてしまう。

この気持ちは、どこから来るのだろうか?

ほろ酔い気分で、仲間達と川沿いを歩き、迎えの車にのってホテルに帰った。

暫くラウンジで酒を呑み、仲間に”また、明日。”と言って、自分の部屋に戻った。
部屋の鍵を開けて、大きな窓から、80階下の世界を眺めた。。
霧に包まれた下界を眺めながら、僕は、また絶対の孤独感を味わった。。
明日も、雨のようだ。。



2008年04月08日  China Girl

上海に来てから、何回目かの朝を迎えた。
太陽が昇って、天気になっても、この街で青空を見ることは殆ど無い。
いつも天空には、薄くガスがはりうす曇のようになっている。
それほど、大気汚染が酷いと言う事なのだろう。

街には、1920年代に建てられたパリを思わせる石造りの建物と、
まるでSF映画から飛び出してきたような奇抜な形の未来建築と、
スラム街のような半ば崩壊した建物が、全く無秩序に混在している。

夜になると、湿度が上がり、奇抜な形の未来建築は、
立ち込めた霧の中に姿を隠し、
街は、数々のネオンの光が霧の中で
ぼんやりと幻影を浮かび上がらせている。。

僕の見た上海は、そんな街だ。
上海での仕事は、予想以上に上手く進んだ。
上海での最後の夜に、仕事関係のパーティがあった。
中国側の今回の仕事に対する熱意は相当なもので、
僕らは、立派なホテルのボールルームでのパーティに招待された。
 面倒だったが、ブラックタイ イベントだったので、
僕は、タキシードを着込んで、パーティに向った。

僕がパーティ会場に着いた時には、既にパーティが始まっており、
沢山の人々がタキシードとカクテルドレスを身にまとい、
シャンペンを片手に談笑をしたり、
バンドの音楽にあわせてステップを踏んでいたりしていた。
中国側の主催者と話をして、スピーチをして感謝の意を表明し、
シャンペンに豪華な料理を楽しんだ。 かなりの人達と話をしたが、
その中で一人の中国女性が、僕の周りにいることが多く、
結果的に、その女性とよく話をする事になった。

背の高い、顔の小さい中国美人で、アップにした黒い髪の毛に黒いカクテルドレスが、
美しい女性だった。流暢な英語を話すその女性は、映画と本が好きなようで、
色々映画の話をしたり、本の話をした。パーティの礼儀なので、
バンドの演奏がたけなわになると、
僕は、その女性を誘って何曲か一緒にステップをふんだ。
パーティが終わる頃に、これは、主催者側が送り込んできた
コールガールだなと言う事に、薄々気がついた。

僕は、その女性を何曲か踊った後で、彼女とホテルのバルコニーに出て、
霧に包まれた川を眺めながら、シャンパンでもう一度乾杯をして、
彼女に、パーティで僕の相手をしてくれた礼を言って、もう帰っていいと諭した。
彼女は、最初驚いたようだったが、自分は、主催者側に雇われたコールガールだと
自分の身の上の話を始めた。このまま途中で返されると主催者側に咎められるので、
せめてパーティが終わるまで、一緒にいて欲しいと頼み込まれた。

潤んだ目で見つめられると、こちらも可哀相になり、
“じゃあ、パーティが終わるまで。”と言って、
もう一度彼女を連れてボールルームに戻り、何曲かダンスを踊った。

やがて主催者側からもう一度、我々に対する感謝と今後の期待をする挨拶があり、
パーティも終わった。 パーティが終わると、
主催者が僕の所に歩み寄って、僕の両手を取って、
オーバーな挨拶をした。何度か僕の隣にいるコールガールを見ていたので、
“彼の思惑通りに”事が進んで、彼も満足だったのだろう。

最後に、主催者側が見えなくなるまで二人で一緒にホテルの廊下を歩き、
彼らが見えなくなったところで、僕は、
彼女に“今夜はどうもありがとう。”と礼を言い、別れをつげた。

そのまま僕の部屋に帰ろうとすると、彼女が僕の後ろから、
“今夜はどうもありがとう。”と同じように礼を言った。
そして、彼女は、“何かお礼をさせて下さい。”と言って、僕を見つめた。
僕にはその気がなかったので、困ったなと思ったけれど、
またあの瞳で見つめられて情が湧き、
“じゃあ、明日の夜、アメリカに帰るまで街を歩いてみたいから、
何処に行ったら良いか教えてくれるか?”と聞いて、彼女に笑って見せた。
彼女も嬉しそうに微笑んで、頷いた。

僕は、彼女を自分の部屋に入れて、大きく張り出した窓側のソファに座って、
シャンパンを開け、もう一度彼女と乾杯をした。
霧に包まれ、ぼうっと霧のかなで輝く青いネオンサインに彩りされた
ハイウェイと黄色や赤のネオンが輝く街並みを遥か下に眺めながら、色々な話をした。
彼女は、上海で生まれ、上海で育ったと、自分の身の上話を始めた。
嘘をついているのかもしれないし、本当かもしれない。。 
でも、僕にとっては、それはどうでも良い事だった。

シャンパンを片手に彼女の身の上話を聞きながら、
霧に包まれた下界を見下ろした。
 そして、遥か天上にいる最愛の人を想った。。
人には、それぞれの事情やしがらみがあり、それを引きずりながら毎日を生きている。
 或る者は、引きずるものの重みに押しつぶされそうになりながら、
或る者は、自分の運命を嘆き、悲しみながら、
それでも毎日を生きていかなければいけない。
それは、自分の為かもしれないし、
自分が支えなければいけない人達のためかもしれないし、
或いは、ただ単に死ぬのが怖いからかも知れない。。
僕には、僕の生きる理由があり、その女性には、
その女性なりの生きなければいけない理由がある。
 そんな事を想った夜だった。。

少しセンチメンタルな気持ちになったけれども、
その女性に情がうつらないように、
僕は陽気に振舞い、上海の地図を机の上に広げて、
彼女に何処に行ったら良いか色々と質問をした。
上海の旧市街、マーケット、
新天地、川沿いの散歩道、と彼女は、指差しながら、
色々と観光地を教えてくれた。 指差す彼女の横顔をふと見ると、
彼女が素直に笑っているように思えて、僕は、少し嬉しくなった。

作り笑いは、その奥に哀しみが透けて見えて、僕を哀しくさせる。

ほんの僅かな瞬間でも、素直な微笑は、僕の心を暖かくさせる。

“私が、明日案内をしてあげます。”と彼女は、僕を見上げて言った。
 困ったな、、と思ったけれど、その女性が、
“お願いだから、案内させて欲しい。”と言うので、結局断る事ができなかった。
結局、彼女に案内を頼む事になり、翌日の朝にホテルに迎えに来て貰うことにした。

彼女をタクシーに乗せて返してから、僕は、やれやれと頭をかいて、
彼女が色々と印をつけた地図を眺めながら、煙草に火をつけた。
翌朝、荷物を纏めて部屋を出て、ロビーでチェックアウトをしていると、
昨日の女性が、僕の事を待っていた。 昨日とは、全く違う装いで、
ジーンズにジャケットだったけれど、そっちの方が、
彼女に似合って可愛いなと思った。

チェックアウトをすませ荷物を預けて、僕らはタクシーに乗り込み、
まずは、上海の旧市街に向った。 そこで、タクシーをおり、僕らは、
たくさんの人でごったがえす朝市を見物し、
地元の人が通う飲茶屋さんで飲茶を頬張った。

僕は、彼らから見ると外人に見えるように、
僕を見つけると何処からともなく人が集まってきて
、僕に、偽物の腕時計やDVDを売りつけようとした。

それを見て、彼女は腹を抱えて笑っていた。

“よそ者だってわかるのかな?”と僕が言うと、
彼女は、“アナタは何処から見ても、外人に見えます。”と言って、また笑った。

昨日とは全く違った子供のように
屈託の無い笑顔を浮かべる彼女に連れられて、僕は、街中を歩き回った。 

夕方になり、飛行場に向う時間が近づいてきたので、
僕らはホテルに帰ることにした。
 ホテルで預けていた荷物を受け取り、僕は、彼女に“今日は、
どうもありがとう。楽しかったよ。”と礼を言って、お金を渡そうとした。

彼女は、怒った顔をして僕の手を押しとどめ、“そんなつもりで、
街を案内したのではありません。”と言って、悲しそうな顔をした。

僕も悪気があった訳ではないのだが、昨日の今日だったし、
一日つきあわさせてしまったので、
お礼を払わないといけないなと思っただけの事だったのだが、
結果的に彼女の気持ちを傷つけてしまった。

僕は、彼女に素直に詫びて、
“空港まで見送ってくれるかい?”と聞いた。
 彼女が頷いたので、僕は、待たせていたハイヤーに彼女と
一緒に乗り込んで、車を空港へ向わせた。

彼女は車の中で気を取り直したようで、また色々と話を始めた。
そんな彼女も空港が近づいてくると次第に口数が少なくなり、
ふと僕の手を取り、
自分の膝の上にのせて、両手で僕の手を包んだ。

僕は、そのまま彼女のほうを向いて微笑んで見せた。 
それを見て彼女も微笑んで見せた。

ターミナルに着き、僕は、今度こそ彼女に別れをつげ、
運転手に彼女を上海市内まで送り届けるように言った。

走り出すハイヤーの窓から彼女が手を振っているのが見えた。
僕も彼女に小さく手を振って、ハイヤーを見送った。
僕は、ターミナルに入る前に、最後の煙草を取り出し、それに火をつけた。
たまには、こんな日もあるのだな。。と思った。
心が癒された半日だった。

彼女の名前も聞かず、連絡先を聞く事もしなかった。 
僕は、彼女と二度と会う事はないだろうし、彼女も上海市内に戻れば、
またいつものとおり、別のパーティに狩り出される生活が待っているのだろう。
上海にいたのは、ほんの数日だったが、僕は無性にニューヨークに帰りたくなった。

“家に帰ろう。”と独り言を言って、僕は足早にチェックインカウンターに向った。








2008年04月23日  幸せの値段   里子
ヨーロッパを回って日本についてから、怒涛のような1週間が過ぎ、僕は、
今、成田のラウンジで、ニューヨークに帰る飛行機を待っている所だ。

クラブ活動の翌日は、ゴルフに行く奴らとは、
別行動で、僕は、施設の子供たちの誕生日会に出かけた。
今回誕生日を祝う子供達は、3人ほどいて、
それ以外にも子供達が6-7人いたので、
全部で10人ほどの子供達のその親を連れて、
僕は、東京タワーの下にある芝公園に出かけた。

そこで子供達と自転車に乗ったり、ドッジボールをしたり、バトミントンをしたり、
サッカーをしたり、公園の芝生の上にマットをひいて、お弁当を楽しんだり、週末を過ごした。

本当は、のどかな週末だと思ったのだが、子供達に、目一杯走らされ、
最後のほうには、心臓が口から飛び出るかと思うほど、ヘロヘロになってしまった。

子供の誕生日会も楽ではない。。。(涙)

ただ、嬉しそうな子供達の笑顔を、
子供達の笑顔をみて嬉しそうに笑う親達の笑顔を見る事ができれば、
僕の疲労も報われた気がするし、彼らの笑顔は、僕にも笑顔をもたらしてくれた。

昔の日記で書いたけれど、僕は、昔、自分の恋人を殺してしまった。 
そして、彼女のおなかの中にいた僕の子供も殺してしまった。

その後も、のうのうと生き続け、
自分が生き残る為に、人をだまし、人を泣かして生きてきた。

僕の手は、僕が犯してきた罪で汚れている。
そんな中で、天使のような彼女に出会い、
自分の罪を悔い改めて、少しでも罪を償う為に、人の為に自分の命を使う事にした。

そうしていれば、いつか僕が死んで彼女と再会する時に、
神様も僕の事を許してくれて、死後の世界を最愛の人と、今度こそ、
二人が歳をとるまで一緒に過ごす事ができるかもしれない。

そんな事を思いながら、笑顔ではしゃぐ子供達の姿を眺めていた。
幸せは、決してお金で買うことは、できない。
笑顔も金で買うことは、できない。
命も金で買うことはできない。。
失った時に初めて気づく、この世の中の大事なもの全てが、
決して、お金で買うことができないものなのだ。

そんな当たり前な事を考えながら、少しでも多く、子供達が、
笑顔でいられるように、愛されていると実感できるように、
そして周りの全てのものに愛を注ぐ事ができるように、
それが、僕の罪滅ぼしであり、この世に生きている理由なのかもしれない。。
そう思った。。
幸せの値段。。。 頭ではわかったつもりでいるけれど、
肌でそれを感じた時に、その尊さに、改めて思いを巡らせてしまう僕がいた。






2008年05月05日 子供達為に車寄付財団 最後ドライブ

死んだ彼女は、オープンカーが好きだった。
彼女は、僕の単車の後ろに乗るのも好きだったけれど、
独立心の強い彼女は、自分でハンドルを握りたがった。
彼女は、単車の免許を持っていなかったので、
自然と、オープンカーが彼女の乗り物になった。

いつも風を感じていたかった。。 いつも自由であろうとした。。

僕と彼女が一緒になる前に、彼女の愛車は、赤いフルオープンのジープだったらしい。

赤いフルオープンのジープの助手席に、大きなゴールデンリトリバーを乗せて、
フロリダの海岸を走っていたらしい。

ニューヨークに移り住んで、僕と一緒になってから、
彼女は、懐かしそうに笑いながら、昔の写真を見せてくれた。

大きな犬を乗せて誇らしげに真っ赤なジープに乗る彼女の写真を見て、
まるで美しい女戦士を見たような気がした。。(笑)

そんな彼女に、僕は、サーブのコンバーチブルをプレゼントした事があった。

僕らは、その車に乗って、彼女の運転で色々な所に出かけたものだった。

コネチカットであったり、ロードアイランドであったり、
たまには足を伸ばしてニューハンプシャーまで出かけたり、
銀色の小さいオープンカーに乗って、二人で風を感じながら走り回ったものだった。

今でも目を閉じると、ブロンドの髪を風になびかせながら、
サングラスをかけて男勝りの運転をする彼女の笑顔と、その笑い声が、蘇る。

彼女が死んでから、早くも2年目を迎え、僕は、自分の人生の終末に向かって、
その人生を全うすべく、最後の努力を続けている。。

彼女の遺品は、かなり処分したけれども、僕の手元にまだ彼女の想い出が沢山残っている。

一昨日の日記の写真にのせた、赤毛のライオンのぬいぐるみは、
彼女が、赤ん坊の頃に、はじめて貰ったぬいぐるみを大事に死ぬまで持っていたものだ。 
彼女の親は、離婚を繰り返し、結局、彼女以外は、そのライオンのぬいぐるみの事は、忘れてしまった。

彼女の人生のつまった赤毛のライオンは、結局僕のところにやってきて、
今は、僕のベッドの上で、僕のクマ達と一緒にいる。。

彼女にあげた車も同じで、彼女が死んだ後も、そ
のまま駐車場の奥に置きっぱなしになっていたけれど、誰が乗る訳でもなく、埃をかぶっていた。

週末、彼女の事を色々考えていて、あの、僕と彼女の想い出が沢山詰まったサーブを寄付しようと思った。

アメリカでは、経済的に助けの必要な子供達に手を差し伸べる財団がある。
それは、現金の寄付でも何でも良いのだが、その中で、車を寄付する事もかなりある。

http://www.kars4kids.org/indexgp.html?acp=
7385&source=ggl3&ky=donate%20your%20car&gclid=COvSsJeSjZMCFQx7PAod9winng

僕は、サーブをKards4Kids.org (子供達の為に車を寄付しよう財団)に寄付をする事にした。
きっと彼女もその方が喜ぶだろう。

僕は、彼女が死んでから一度も外に出した事が無かったサーブを外に連れ出し、
自分の手で丹念に洗ってから、彼女がしたように、幌をおろしてオープンカーにして
彼女と一緒に走り回ったハドソン川沿いのハイウェイを少し走らせた。

そして、川のほとりに車を止め、車に感謝をして、写真を一枚撮った。

これで少しでも子供達の助けになるのであれば、車も彼女も幸せのはずだ。

僕は、川を眺めながら、煙草に火をつけて、彼女を思った。

今度、彼女と一緒にドライブをするのは、僕が死んだ時。。

その時は、古いアルファのスパイダーにでも乗って、花が咲き乱れる高原かなにかを、彼女と走り回ってみたい。。

きっと、僕も彼女も、若い頃の二人に戻って、きっと彼女は、ブロンドの髪をなびかせながら、
僕に、最高の笑顔を振りまいてくれるはずだから。。






2008年06月13日  どうも、ありがとう。。

僕は、最愛の人と死に別れ、自分の残りの人生を、
彼女と語り合った夢の実現の為に捧げる事にした。

僕は、過去に何度も自殺を試みたが、その度に、情けない事に死に切れず、
周りに迷惑をかけながら今日まで生きながらえている。

彼女が死んだ時にも、
彼女を追いかけて行きたいと言う衝動に駆られた事は事実だけれども、
それ以上に、僕を突き動かしたのは、
最愛の人と語り合った夢を実現させてから、
それを土産に彼女に会いに行きたいという気持ちだった。

それは、僕なりの成長の証であり、男の証であり、
逃げ続けだった自分の人生への清算のためであり、
様々な想いを超えて、僕が行き着いた結論だった。

彼女の夢には、愛があった。 
見返りを求めない無償の愛があった。

無防備であるが故に、自分はボロボロになっても、
更に両手を差し伸べて愛を与える潔さと強さがあった。。

生き馬の目を盗む業界で生き抜いてきた僕にとって、
彼女のアイディアは、あまりにも無垢で、あるいみ子供じみて見えた。

理想的な世界では、彼女が正しいかもしれないが、
この汚れた世の中では、何かを成し遂げる前に、
皆に食い散らかされてこちらがボロボロになってしまうだろう。

勝算は、全く無かった。
でも、僕は、彼女の生き様を通して、
決して叶わない夢でも、夢の為に命をかけると言う事を教わった。

結果が全てではない。。 
姿勢をみせる事が、結果よりも大きなインパクトを人に与える事もある。
馬鹿になりきって、力の限り突き進む事。。

彼女の為に、僕を含めた38人の馬鹿どもは、自分達が、
この世に生きた証を残す為、狂ったように走り続けた。。

何人かは、かけ落ちて行ったけれども、どんどん状況が厳しくなる中で、
残ったものたちは、それぞれの気持ちを胸に抱えたまま、
この15ヶ月を闘ってきた。

一年でケリをつけると僕は、言ったけれど、
結局、15ヶ月の月日を費やしてしまった。。

けれど、漸く、僕は、彼女との約束を果たすことが出来たようだ。
遂に、難航していたヨーロッパでのプロジェクトを纏める事ができた。

これが出来たら、あの世に行っても、彼女に胸を張る事ができる。。
彼女と再会した時に、僕がどれだけ寂しかったか、
どれだけ君の事を愛していたか、君と僕が一緒に生きた証を残す為に
どれだけ頑張ったかをやっと話す事ができる。

一時期は、彼女との約束を果たせないと諦めて、
最後の最後まで力をふりしぼり、どこで散るかだけを考えていた時期もあったけれど、
冥加に叶い、今は何とも言えない気持ちだ。

ここで、僕を支えてくれた多くの友達にも、
この場でお礼をさせて下さい。
どうも、ありがとう。。
さて、これからどうしようか。。

僕をこの世界に置いてきぼりにし、
遠くから僕に微笑み続けている最愛の人の下に、
会いに行くもよし。。

暫く、世を捨ててみるもよし。。

また、新しい夢を追いかけるもよし。。



おかげさまで、死んだ彼女に約束した事は、
全部、約束どおり達成しました。
それだけが心残りだったので、
これでいつでも胸を張って、彼女に会うことが出来ます。



2008年06月14日  花神

首の皮一枚だけで何とか持ちこたえていた
ヨーロッパでのプロジェクトを何とか立て直し、
相手方の猛攻を押し返し、ようやく勝利を勝ち取った。

一時期は、自らの命をもって責任を取ろうと思い、
”湊川だ。”と友達に告げて、単身ヨーロッパに向かった事もあった。

全てが終わった今となっては、全てが、まるで何百年も前の夢物語かのように思える。

僕と義兄弟になった、あのレバノン人の友達も、
首から下の筋肉が溶けてしまう奇病に冒された奥さんを看護しながら、
自らの技術者としての最後の誇りをかけて闘った技術担当副社長も、
金のない人達の生活を守る為に、
自ら公選弁護人になって数々の刑事事件に立ち向かった法務担当副社長も、
この日を信じて、闘って来た訳だけれども、いざその日がやってくると、
皆、力が抜けてしまったかのように、ぼーっとしてしまっている。
僕に取っては、これがゴールでも、彼らに取っては、これは、スタートなのだ。

僕は、夢の水先案内人。。
あるいは、枯れ木に花を咲かせる花咲ジジイ。。
花が咲いた時には、その不思議な老人は、その姿を消している。。
それが、花咲ジジイの伝説だ。

僕は、彼女の思いのこもった花をこの枯れ木に咲かせる事ができた。

その花に、水をやり、木を大きくし、更に沢山の人が
この木の下で憩う事ができるようにするのは僕の仕事ではなく彼らの仕事だ。

”これでお別れだな。”と、僕は、レバノン人の友達の肩を叩いて笑ってみせた。

レバノン人の友達は、ちょっと驚いたように僕を見たけれど、
彼も僕とこの何年間かを一緒に闘い抜いた仲なので、
僕の事は、良くわかっている。。

彼は、前を向いたまま、”俺も連れて行ってくれないかな?”と言って、
ちょっと恥ずかしそうに僕の方を向いて笑ってみせた。

僕は、それには答えずに、ただ前を向いたまま煙草の煙をくゆらせた。。

今日も、ニューヨークは、素晴らしい天気だ。
僕は、仕事場を抜け出して、一人でセントラルパークの中を少し歩いてみた。

緑の生い茂る木々の下を、のんびりと歩くのは、気持がよい。

彼女が、まだ歩く事ができた頃に同じ道を彼女と手を繋いで歩いた。。

あの時は、冬の足音が、すぐそこまで聞こえて来るような晩秋の公園だった。。

僕は、誰も座っていないベンチをみつけ、一人腰を下ろし、
木々の間から見え隠れする太陽を仰ぎ見て、
彼女との日々を思い出し、彼女を想った。。

まるで、ここに座って、天使が迎えに降りて来るのを、待つように。。
小一時間ほど、ここに座っていただろうか。。

子供が取りこぼしたボールが、僕の足に当たって、ふと我に帰った。

僕は、ベンチから立ち上がり、
足下に転がっていたピンク色のボールを拾い上げ、
キョトンとした顔で僕を見つめる、小さい子供に向かって、
優しくボールを投げ、微笑んで見せた。

子供も笑って、ボールを受け取った。

反対側に走って行く途中で、もう一度、振り返って僕に微笑んで見せた。
なんとなく、その子供の微笑みの中に、彼女の微笑みを見たような気がした。。



2008年06月14日  辞める従業員の進路相談

今、ケネディ空港のラウンジで、この日記を書いている。

彼女の夢は実現したわけだけれど、”はい。 これで僕は、おしまい。 
後は、皆さん勝手にやって。”とは、言えないので、急に立ち止まるような事はできない。

東京に行って、日本の会社の従業員と1週間ほど時間を取らなければいけない。
 僕は、月に一度しか日本に行けないので、行った時には、
必ず全社員一人一人と、1時間ずつ時間を取って、個別に話をすることにしている。

仕事の悩みだったり、生活の悩みだったり、人によって様々だけれども、
膝を突き合わせて話し合う事、相手の悩みや意見を真摯に聞くことが、
上に立つものの義務だと思っている。

かなりの人数がいるので、この作業だけでも、
僕の滞在の殆どの時間が使われてしまう。
昼間で納まりきれない人たちや、
もっと時間の必要な人たちは、夜に食事をしながら話す事にしている。

僕の会社は小さいけれど、それでも色々な人たちが、
それぞれの意見や悩みを抱えている。

それを真剣に聞いて、ともに悩む事で、僕は、その分、
自分自身も成長するし、その人の人生の一部を共有させてもらう事で、
さらに僕の人生も豊かなものになると信じている。

人生は、一度きりしかない。
自分だけの人生を生き抜くのも生き方だ。。

自分の人生のほかに、他人の人生の一部も共有する事で、
何人分の人生を一度に生き抜くのも、また別の生き方だ。
どちらもそれぞれ生き方であり、人の生き方に優劣はない。
たまたま、僕は、後者の人生を選んだ。。
他人の人生に関わる事で、僕は、自分自身では経験できない経験を積むことを選んだ。。
僕の従業員の一人に、中国人の女性が、いる。
非常に優秀な、女性だが、残念ながら、僕の所を離れて、
アメリカの大学院に留学する事にした。

この2ヶ月ほど、彼女の進路を決めるにあたって、色々話をしてきた。

彼女が会社をやめると決めた後でも、大学院に入る為の、
推薦状や、アメリカでの生活の細々とした事まで、色々と相談にのり、
大学院の教授にも会い、推薦状も書いた。

その過程で、彼女は、僕に、”会社を去っていく、
私にどうしてこれ程、色々親切にしてくれるのですか?”と聞いた。
僕は、彼女に、”君は、会社を去って、僕の知らない世界に行くからこそ、
こうやって色々と時間をかけているのだ。”と答えて、戸惑っている彼女に笑って見せた。

”僕は、もう年を取っているし、後、どれだけ生きていられるかわからない。
君は、まだ若いから、僕は、こうやって君の挑戦に関わる事で、
若い君の挑戦の中にちょっとでも生き続けることができるから。。”と説明したら、
彼女にもようやく僕の真意がわかったようで、大きな瞳に、
急にこぼれんばかりの涙をためながらも、精一杯の笑顔を僕に見せてくれた。

月曜日の夜は、その従業員とディナーをしながら、
彼女の色々な相談や質問に答える事になっている。

彼女からしてみれば、僕は、不思議な存在のようで、
今まで、何を考え、何をして生きてきたのかを、つぶさに聞きたいそうだ。

そんな話は、一時間では終わらないから、夕食を食べながら、ゆっくり話をする事にした。
きっと、僕の元を去る前に、僕から吸収できるものは全て吸収したいと思っているのだろう。
そう思っているのであれば、僕は、全てを惜しみなく全てを与えるつもりだ。
それが僕に出来る唯一の事だから。。
もうすぐ、フライトの時間だ。



外国に住む決心をして、日本を飛び出してから、はや、30年の月日が経った。
自分で望んで飛び出したのだけれども、これまで本当に色々な事があった。
30年間流離い続け、ここまで来ると、後は、死ぬまで流転し続けるのだろう。
それは、僕が望んだ人生だったけれど、流浪の人生が、
これだけ僕の心をセンチメンタルにするとは、思わなかった。
そんな事を考えながら、僕は、飛行機のシートに深く腰をかけて、
目を閉じた。 このまま、眠り続け、
もう二度と目を醒ます事がなければ、等と考えながら。。



2008年06月28日  想い 姪っ子の人形さん

死んだ彼女の兄弟が、フロリダに住んでいる事は、前の日記で書いた。
彼女のお姉さんは、フロリダで福祉関係の仕事をしていて、
一人娘がいるが、ある事情で離婚をしてしまった。

福祉関係の仕事は、大事で、尊敬されるべき仕事だけれども、
その仕事柄、お金はもうからず、
母子家庭で娘を育てながら懸命に毎日を生きていた。

死んだ彼女は、姪っ子に幼い頃の自分を重ね合わせ、
姪っ子の学費を仕送りし、お姉さんの家計を助けたりしていた。

そんな姉妹を見て、家族を持たない僕は、その見返りを求めない愛情に、
ちょっと羨ましさを感じたものだった。

”アタシは、姪っ子の為に生きている。。”と彼女は、そう言っては、
僕に笑いかけたものだった。。

彼女が死んでから暫くして、フロリダのお姉さんがニューヨークに来て、
僕も姪っ子に会った事を、随分前の日記で書いた。

その母子が、家族の用事でまたニューヨークに来たらしく、
久しぶりに、死んだ彼女のお姉さんから連絡があった。
まだ僕の事を気にしていてくれているようで、”ちょっと会って、
コーヒーでも飲まないか?”と言ってくれた。 
姪っ子に会うと、僕は、流石に死んだ彼女を思い出して、
また色々な気持が沸き起こってしまうので、できれば、
会いたくはなかったのだが、
お姉さんの気遣いも袖にはできなかったので、ちょっとだけ、
彼女達に会う事にした。

3時過ぎに仕事をちょっと抜けだし、5番街と45丁目の交差点で、待ち合わせをした。

僕は、約束の時間にちょっと遅れてしまったので、僕が交差点に着くと、
そこには、見覚えのある母子が、立っていて、姪っ子は、
僕を見つけると、ちょっとはにかんだような仕草を見せた後に、恥ずかしそうに手を振った。

僕も彼女達の方に歩いて行きながら、姪っ子に手を振った。
僕は、交差点で膝を曲げて姪っ子と目線を会わせると、
姪っ子は、笑って、僕に大きなハグをしてくれた。

”僕の事を覚えているの?”と聞くと、姪っ子は、
小さく笑って頷いて、”Tosh、こんにちは。”と言った。
僕ら3人は、近くのカフェに入り、コーヒーを飲みながら、
母子の近況について話を聞いた。 その間、姪っ子は、チョコレートシェイクを啜っていた。

相変わらず、お姉さんは、福祉関係の仕事に携わり、
彼女自身も死んだ妹の魂を引き継いで、頑張っているようだった。
彼女の魂は、色々な人の心の中に引き継がれ、生き続けている。。

そう思った。。

”貴方は、どうなの?”と、お姉さんは、僕に聞いた。
僕は、小さく笑って、”相変わらず。。”と答えた。

彼女もコーヒーカップを両手で弄びながら、僕の返事を聞いて、小さく笑った。
そして、”元気そうで、安心したわ。”と言ってくれた。。
暫く話をして、カフェを出て、僕は、47丁目のお人形屋さんに、二人を連れて行った。
僕から、姪っ子へのプレゼントだった。
そのお人形屋さんは、自分で好きな裸の人形を選び、
好きな体型に綿を詰め込み、髪の毛を決め、洋服を選んで、
自分だけの人形を作るというカスタムメイドのお店だった。

店に入ると、姪っ子は、大喜びで、裸の人形を選ぶのに、大はしゃぎだった。。

そんな姪っ子の姿を見て、お姉さんは、ただ嬉しそうに微笑んでいた。
そして、ちょっと僕を見て、”Tosh、いつもありがとう。。”と言った。

結局、姪っ子は、自分とよく似た金髪の女の子の人形を選んだ。

背中には、綿を詰める為の穴があいていて、そこに綿を詰める前に、
押すと声を出す小さなスイッチと、小さなハートを入れるようになっていた。

姪っ子は、”I Love You."と言う声を出すスイッチを選んだ。

店員さんが、やって来て、姪っ子に、”この人形は、
これから君のベストフレンドになるんだから、このハートに願い事を混めて、
自分の心臓の上に手をおいて願い事をして、1回キスをして、
2回息を吹きかけてから、ハートをこの中に入れるんだ。”と説明をした。
姪っ子は、小さなハートを握りしめ、一生懸命、何かの願い事をして、
言われたとおり、ハートにキスをして息を吹きかけ、人形に生命を与えるように、
ハートを大事そうに人形の背中に入れた。

店員さんと一緒に、姪っ子は、人形に綿を詰め、背中の穴を塞ぎ、
洋服を着せて、彼女だけの一体の人形が完成した。

姪っ子に、”なんて名前にするの?”と聞くと、彼女は、”Heather”と答えた。
僕は、彼女の人形作りの過程を後ろから眺めていて、何故か心が温まるような気がした。
命のない人形にも、こうやって、愛情をかけて命を吹き込む事ができるんだなと思った。
姪っ子が信じている限り、この人形には、命が宿っている。。
丁度、僕やお姉さんの心の中に、死んだ彼女の想いが宿っているように。。
そんな生き方もあるんだなと、ふと思った。

人形が完成し、3人は、4人になって店を出た。
姪っ子は、嬉しそうに新しい友達を抱えていた。
僕は、そろそろ仕事に戻らなければいけなっかたので、
少し彼女達と一緒に歩いて、50丁目の交差点で、彼女達と別れた。
別れ際に交差点で、姪っ子は、僕にもう一度、
大きなハグをくれて、”Tosh、ありがとう。”と言って、笑った。
僕も笑った。
母子と別れ、僕は、自分の仕事場に歩いて行った。
途中で後ろを振り返ると、母親に手を繋がれた小さな女の子のもう1つの手には、
たった今、彼女の愛情が宿ったばかりの人形がぶる下がっていた。。
僕には、人形は無いけれど、僕の心には、彼女の想いが宿っている。。
そんな気がした。。
彼女の想いを大事に抱えながら、その想いが飛んでなくなってしまわないように、
大事に守りながら、僕は、この先、残された人生を歩いて行くのだろう。。





2008年07月05日 独立記念日


独立記念日の朝は、生憎の曇り空になった。

昨日は、結局、ウイスキーのボトルを抱えたまま眠りに落ちたらしい。

明け方に夢を見たような気がする。。

天使が降りて来て、大きな羽で僕を包んでくれる夢。。

天使の羽に包まれて、僕は、自分のアパートのベランダから、
飛び立ち、ハドソン川の上を天使と一緒に飛んで行く夢。。

眼下にジョージワシントンブリッジを見下ろし、雲に手が届きそうだった。

僕は、天使に向かって微笑んで見せた。 
彼女も、それに答えるように僕に優しい微笑みを投げかけてくれた。。

どこか懐かしい面影のある天使は、亜麻色の髪の毛をなびかせていた。。

そんな夢だった。

夢から覚めると、まだ外は、夜の帳が明けきっておらず、
薄紫色の空に、灰色の雲が覆いかぶさっていた。。

僕は、ベッドから這い出て、ベランダに出て、ハドソン川越しに橋を見つめた。

夢の中で、僕が天使に抱かれて眺めた橋だ。。

ベランダのフェンスに寄りかかって、橋を見ながら、煙草に火をつけた。

このまま、この場所にいて、夜が明けるのを眺める事にした。

ふと頭の中に、Three doors downのHere Without Youが頭に浮かび、
何度となくその唄を口ずさんだ。。

”僕は、君と離れて、ただ一人ここに佇んでいる。

でも、僕の孤独な心の中には、まだ君がいる。

いつも、君の事を想い、君の事を夢見ている。

僕は、君を失い、ただ一人ここにいる。

でも、君は、まだ僕の夢の中に現れて、今夜は、僕と、君の二人だけ。。”

"I'm here without you baby
But you are still on my lonely mind
I think about you baby and I dream about you all the time
I'm here without you baby
But you are still with me in my dreams
And tonight, it's only you and me.."

煙草の煙を吐き出しては、それが雲の中に消えて行くのを見つめていた。。

今日は、独立記念日だ。

街では、きっと色々な催し物が行われ、人々の楽しそうな声が響き渡る事だろう。

若者達は、酒を呑んで、ガールフレンドやボーイフレンド達と大騒ぎをするのだろう。

僕も何年か前に、死んだ彼女と過ごした独立記念日のいくつかを思い出した。

色々な思い出が、浮かんでは、消えた。

思い出は、日が経つに連れて、色あせるどころか、更に美しくなり、
鮮明なイメージを僕の心の中に照らしていく。。

朝が明けきるのをベランダで見守って、僕は、ベランダから部屋の中に戻っていった。

今日は、独立記念日だ。。



2008年08月02日 巴里奇談

死んだ彼女と僕の馴れ初めは、ふとしたきっかけで、
二人で食事に出かけた事から始まった。。

なにかの拍子で、二人で日本食の話になり、
彼女が、日本食が好きだと言ったので、
”だったら、二人でNOBUに行こうか?”と僕が誘った。

でも、二人で一緒にNOBUに行く事はなかった。

いざ二人で食事に出かける事になると、
彼女が選んだレストランは、
彼女が家族とよく出かけるダウンタウンのモロッコレストランだった。(笑)

二人で楽しく白ワインで食事をして、色々な話をした。

食事が終わり、僕は、彼女をアパートまで車で送ると、
”アタシの部屋を見て行かない?”と言われ、
彼女のアパートの中に入れてもらい、アパートを見せてもらった。

寝室の壁が、バーガンディに塗られている素敵な部屋だった。

僕は、部屋を案内してもらうと、長居をしては迷惑だと思って、
”素敵な部屋だね。 部屋を見せてくれてありがとう。”と言って、
彼女と別れ自分の家に帰った。。

それから、二人は、週に一度位の割合で、
一緒に食事に行くようになり、段々その頻度が増えて行った。

そんな事を繰り返しているうちに、冬になり、
いつものように彼女とダウンタウンのステーキハウスに行った。

そこでいつものように赤ワインとステーキを食べ、
いつものように色々な話をした。

食事が終わり、冬のニューヨークの街を二人で歩いていると、
彼女の方から、僕の腕に手を回してきて、僕に寄り添った。 
僕らは、そのまま歩き続け、道端に止めてあった僕の車に乗り込み、
僕は、彼女をいつものように家まで送った。

彼女のアパートの前について、いつものとおり、
”おやすみ。”と言うと、彼女は、そっと僕にキスをしてくれた。

そんな二人が、初めて一緒に旅行に出かける事になった。。

その初めての旅行が、巴里だった。

僕らが始めて巴里を訪れたのは、1月だった。

巴里の冬は厳しかったけれど、二人で手をつないで、街中を歩き回った。

どんな小さな事も二人にとっては、大冒険だったし、
二人で顔を突き合わせては、笑いあっていた。

”ここで貴方と余生を送りたい。”と彼女は、言った。

僕は、ただそんな彼女を見つめて微笑んでみせた。

”アタシは、真剣だよ。”と彼女は口を尖らせてもう一度言った。

そして、自分自身がおかしかったのか、暫くして、自分で笑い出した。

その笑顔が、何もよりも素敵だった。。

その後、この街には、彼女と何度か立ち寄った。

”巴里は、アタシにとっては、特別な街なの。
”と彼女は、いつも言っていた。

彼女の病気が発覚し、病状が進み、入院をしてからも、
彼女は何かにつけて巴里の話をした。

”巴里で余生を送る事。。”が、彼女の生きる希望でもあった。

僕は、とあるクリスマスの日に、全てを捨てる決心をして、
彼女と余生を巴里で過ごす事に決めた。 そして、それを彼女に告げた。

あの時の彼女の笑顔を、僕は決して忘れない。。

彼女が死ぬ直前まで、僕と彼女は、毎日、沢山の話をした。

彼女は、彼女の方から僕にキスをした時の気持ちを後で、告白してくれた。(笑)

”これだけ一緒に食事に出かけているんだから、
アタシの事を好きに違いないと思って、勇気を出して、
腕を組んで、それからキスをしたの。。 
女の子に、そこまでやらせるんだから、本当に貴方は嫌な人。。”
と言って、彼女は笑ってみせた。

僕も、彼女に昔の気持ちを告白した。。

二人が付き合い始めたのは、NOBUに行こうと言うのが、
きっかけだったのに、ふたりで一度もNOBUに行かなかった理由。。

それは、二人でNOBUに出かけたら、
それで最初の出会いの目的が達成されてしまい、
もう会えなくなってしまうんじゃないか?って妙に不安に思ったから。。

彼女に、それを告白すると、彼女は、本当に可笑しそうに、
コロコロと笑った。 そして、僕の鼻の頭にキスをしてくれた。。

遠い昔の出会いの時期を懐かしむように、
迫り来る二人の永遠の別れを惜しむように、僕らは、昔話に花を咲かせた。。

”いつか二人で巴里に住もうね。。”

いつも会話の最後は、巴里の話になった。

僕は、彼女をもう一度、巴里に連れて行くと約束をした。


あれから、最愛の彼女は、天国に帰り、
僕は、一人、この巴里の街を彷徨っている。。

巴里奇談。。。

遠い昔に、そんな話があったなあ。。
と想いを馳せながら、今日も一人、思いにふける。

巴里奇談。








倫敦での仕事に一区切りをつけ、金曜日のユーロスターに乗って、
巴里に帰ることにした。

倫敦に着いた夜は、雨だった。 その後は、雨が降ったり、
晴れ間が出たりの不安定な天気だった。

僕が今回倫敦に来た理由は、新しいプロジェクトの為の人員の採用だった。

本来だったら、最初の頃の面接は、部下に任せて、
自分は最後の面接をしているのだが、今回は倫敦での採用で、
僕がたまたまこちらにいたことから、僕が最初に彼らに会うことにした。

僕らが、採用広告を出す時には、僕ら自身の名前は出さずに、
架空の小さい会社の名前を使って、プロジェクトの内容だけで募集をかける。

僕らの事は、ある程度業界にしれているので、僕らの名前を出すと、
ただ単に僕らの仲間になりたいだけの理由で、応募をしてくる連中が多いからだ。

だからあえて架空のちっぽけな会社の名前を使う。 
そうすると、プロジェクトの内容に感銘を受けて
挑戦をしたいと言う連中だけが集まってくる。

100通ほど集まった履歴書を眺めて、20名ほど抽出し、
丸2日かけて彼ら全員の面接をした。

面接をすると、中には、僕の事をどっかで聞いて知っていて、
面接に僕が出てきて驚く人もいる。(笑)

面接では、それぞれに彼らの生きる目標を聞き、
その目標の為にどのような計画を立てて、どこまで実現をしているのか、
その人生設計の中で、今回の仕事がどのような意味を持つのかを必ず聞く。

生きる目標のはっきりしていない人間は、
人生における仕事の意味づけも決まっておらず、
結果として中途半端な成果しか残せないと言うのが、僕の考え方だ。

仕事も大事だけれども、仕事は人生の一部でしかない。

だからその一部である仕事が、
自分の人生の目的の中でどのような意味合いを持っているのかが
はっきりしていれば、雇い主の僕は、彼らの人生の目的が達成できるように
仕事を割り振ってやることが出来、その代わり、
彼らに真剣に仕事をしてもらうコミットメントを求める事ができる。

仕事が欲しいだけの人間は、仕事を得る事に全力を傾けるが、
仕事を得た途端に安心をしてしまい、そこから先に力を発揮できない人が多い。

就職の面接で、そんな事を聞くのは、あまり一般的ではないらしく、
大体の人は、面と食らった顔をするが、理由を説明すると、
大体の人は、笑って納得をして、自分の人生の目標、
その目標の実現の為に、この仕事がどういう意味を持つのか?、
この仕事をする事で何を得る事を期待しているのか?、
その反対給付として、自分は、
仕事に対して何をコミットする用意があるのか?を話してくれる。

そうやって話をしていくことで、僕は、
その人たちの内面を探り出そうとする。 結局は、仕事は、人間関係だ。
その人を信頼できるか、その人が僕を信頼できるかが、全ての鍵になる。

一緒にプロジェクトに向っていく以上、
僕は、自分の命をかけて彼らを守り、目的地に連れ行かなければいけない。 
それが、僕のコミットメントだ。

その代わり、彼らは、彼らの命をかけて僕についてきて、
プロジェクトの達成に向けて全ての英知を傾けて欲しい。
それが、彼らのコミットメントだ。

そして、プロジェクトが達成して全てが終わったときに、
笑って別れられる様に。。。

結局、僕は、その中から3人の候補を選び出した。

この後は、僕の部下2人に、その3人の面接をしてもらう。

僕の下で仕事をしている連中は、優秀だが、
子供のような奴らが多い。(笑)
僕は、彼らを愛情をこめて、“頭の良い5歳児達”と呼び、
自分の子供だと冗談を言っている。

15年連れ添っている僕の秘書が、彼らのお母さん役という訳だ。。(笑)

面接が終わって、僕は、アメリカにいる僕の秘書に電話をかけて、
面接の結果を知らせた。

そして、彼女に、
ヨーロッパでもう一人子供を作る用意があるか?”と聞いてみた。

彼女は、電話口で笑い始め、"アタシ達は、子沢山だから、
ヨーロッパにもう一人くらい子供ができても大丈夫よ。”と
言って、また笑った。。

仕事が終わり、僕は、ユーロスターに乗ってまたパリに戻る。

この日記は、ユーロスターの車内で車窓を眺めながら、書いている。

ここ数日雨だった倫敦も、今日は晴れ間が見えている。

雲の合間から見える青い空を眺めながら、
“あと、どの位こんな青空を見上げる事ができるのだろう?”とふと切なくなった。

白い雲と青い空は、僕を遠い昔の幸せだった時に、
連れ帰ってくるような気がする。

そこには、僕と最愛の人との思い出が詰まっており、
彼女と一緒に青空を眺めた頃に想いを馳せる。。

何とも切ない気持ちになって、僕は、目を閉じた。。



小雨の巴里 2008年08月03日

今朝は、目を醒ますと、巴里の街は、低く垂れ込めた、
今にも泣き出しそうな灰色の雲の下に佇んでいた。

僕は、ホテルを出て、第6区にあるアパートに移る事にした。

第6区は、セーヌ川の左岸にあり、ギャラリーや骨董屋さん、
小さなブティックが立ち並ぶお洒落な街だ。

死んだ彼女と初めて巴里に来た時も、このあたりの地元のホテルに泊まった。
ホテルのペントハウスで、部屋にバルコニーが付いていて、
寒い一月だったのに、バルコニーに出て、巴里の街の灯りを眺めながら、
二人でシャンパンを開けて乾杯をしたものだった。。

小雨が降る中を、僕はアパートに向った。

僕のアパートは、メインストリートを一本奥に入った所にある、
古い石造りの建物の三階にある、バーガンディのカーテンが、
昔を思い起こさせる可愛い部屋だ。

暫く使われていなかったので、簡単に掃除をして、
荷物を整理し、僕は、雨の中、近くのカフェで食事を取る事にした。

雨のせいか、肌寒いほどだ。。

カフェの外に出された小さなテーブルに腰を下ろし、
白ワインとラビオリを食べた。 
腹ごしらえをしてから、細々とした買い物をした。

角の果物屋も、その2件となりのスーパーマーケットも全て昔のままだ。。

唯一違うのは、彼女がいないことだけ。。

買い物を済ませ、買い物袋をさげ、フランスパンを袋に2本突き刺して、
僕は、自分のアパートに戻ってきた。

今夜は、フランス人の友達が8時に僕の所に来て、
それから一緒に食事に出かける事になっている。

明日は、晴れると良いな。。





永遠の愛 2008年08月04日18:53

日曜日の巴里は、雨が急に降ってきたかと思うと、
晴れ間になったり、落ち着かない天気の一日だった。

午前中は、細々とした仕事をして、午後になって漸く外に出た。

アパートの近くのカフェに立ち寄り、
シャンパンを一杯ほど飲んだ。 
通りに面して置かれた籐椅子に腰を下ろし、行き交う人を眺めながらゆっくりとした時間を過ごした。

午後になって、友達と待ち合わせ、
Palais Royalにあるレストランに出かけた。

Palais Royalは、ルーブル美術館の近くにある小さな庭園で、
庭園の中には、3−4つのレストランがあり、それぞれ、庭園に面してオープンカフェのようにテーブルが並べられている。

雨上がりの庭園を眺めながら、
久しぶりに会った友達と、色々な話をした。

友達と別れ、暫くパリの街を彷徨った。。

ふとした場所で立ち止まっては、遠い昔の記憶を呼び起こし、
記憶の奥底にある最愛の人の影を追った。。

8月には、Rue De Rivoliには、移動遊園地がやってくる。

子供連れで賑わうカーニバルを眺めながら、ベンチに腰を下ろした。

このカーニバルにも思い出がある。

死んだ彼女と巴里に立ち寄った時に、
このレトロな雰囲気漂うカーニバルに出くわした事がある。

彼女は、子供のように喜んで、二人でカーニバルの雑踏を歩いた。。

観覧車を見つけて、子供の群れと一緒に列にならび、
二人で小さな観覧車に乗った。 
観覧車から眺める巴里の街の景色に大はしゃぎをしていた彼女の横顔が、
浮かんでは消えた。。

夜には、別の友達とPassyで会うことになっていた。

Passyは、巴里の裕福な人たちが固まって住んでいる高級住宅地だ。

僕の友達も裕福な家の生まれで、所謂、ヨーロッパの貴族階級のボンボンだ。

7時半に彼の家に行く事になっていたので、車を飛ばしてPassyに向った。
彼の家は、ルイ ヴィトン一族の家の隣にある豪邸だ。(笑)

日本やアメリカに住んでいると、
階級社会の現実に直面する事はあまりないが、ヨーロッパには、
いたるところに階級社会の現実を見る事ができる。

文化の違いを実感する瞬間だ。

彼の家のエリアは、壁で囲まれていて、
その一角に入るには、守衛のいるゲートを抜けていかなければならない。

僕は、ゲートを抜け、暫く坂を上がった所にある彼の家の前に車を止めた。

久しぶりの再会に、彼は、手料理で僕をもてなしてくれた。 
他にも何人か知った顔が、彼の家に遊びに来ていたので、
ちょっとしたパーティになった。

新しい仕事の話を少しして、11時頃に彼の家を後にした。

エッフェル塔には、青いサーチライトがあたり、
まるで青い蝋燭のように見えた。

その昔、死んだ彼女とエッフェル塔で写真を撮ったのを思い出した。
その写真は、ここで何度か紹介した事もあるが、
金色に輝くエッフェル塔をバックに二人で撮った写真だ。。

今夜のエッフェル塔は、冷たい青色に輝き、何故か寂しげに見えた。

アパートに戻ったが、直に眠る気分ではなかったので、
一人で、セーヌ川の川べりを歩いた。

セーヌ川には、いくつもの橋が架かっているが、
その一つの橋の真ん中でキスをすると永遠の愛が叶うという橋がある。

都市伝説の一つにすぎないけれど、その噂を聞いて、
沢山の恋人達が、この橋にやってきては、願いを込めている。。

死んだ彼女もそんな噂をどこかから聞きだしてきて、
”この橋の真ん中でキスをすると永遠の愛が叶うんだって!”と
嬉しそうに言って、僕の手を引いて端の真ん中まで小走りに走り、
ちょうど、船が橋の下を通る瞬間に、キスをしたのを覚えている。。

あの時も、子供のように無邪気に笑って、”永遠の愛だからね。。”と
僕に念を押していた悪戯っぽい瞳を思い出した。

僕は、橋の真ん中に置かれているベンチに腰をおろして、
川面を見つめた。

あの時の二人が、何百年も昔の事のように思えた。。

永遠の愛なんて存在しない。

彼女が天国に帰ってしまった今、一人取り残された僕には、
永遠の愛などは、かけらも残っていない。。

あれは、都市伝説で、永遠の愛なんて言うものは、嘘っぱちだ。。

大体、死んでしまった人と、心を繋ぎ合わせる事もできないし、
言葉を交わすことも、抱きしめる事もできない。。

永遠のものがあるとすれば、それは、永遠の片思いだろう。。

彼女が死んで、かなりの月日がたっても、僕の心の中には、
彼女に対する色あせる事のない愛情がある。

永遠の片思い。。とでも言うのだろうか。。

永遠に彼女を思い続ける気持ちは、
僕が、この世に生きている限りは、永遠に残るのだろう。

決して届く事のない、決して叶う事のない僕の彼女に対する想いは、
僕が死ぬまで、僕の心の中に存在し続ける。。

永遠の愛とは、そんなものなのかもしれないなと、ふと思った。。







駅 2008年08月05日

週末とはうってかわって、月曜日は、素晴らしい夏日和になった。

午前中は、アパートで仕事をして、午後に友達とカフェで待ち合わせをした。

待ち合わせたカフェは、僕と死んだ彼女のお気に入りの場所で、
St. Germainと言う目抜き通りに面しているが、向いが教会の為、
表通りに面している割には、静かなオープンカフェだ。

彼女は、このカフェが大好きだった。

二人で、よくここに来ては、外に出されたテーブルに座り、
シャンパンを飲みながら、色々な話をしたものだった。。

友達と待ち合わせ、折角の天気だったので、外のテーブルに座り、
僕は、オムレツとシャンパンで昼食をとった。

友達とは、仕事の話を2時間くらいして、色々と構想を練った。

昼食が終わり、友達と別れ、僕は、少し巴里の街を散歩することにした。

セーヌ川を渡り、移動遊園地が来ている公園を横目で見ながら、
公園の真ん中に設置されている大きな池にやって来た。 この池の周りには、ベンチが沢山置いてあるので、その一つに座り、夏の日差しが跳ね返る池の水面を眺めていた。

僕の座っている目の前に、水鳥が、羽を休めていた。

大きなカメラを抱えた女性が、やってきて、無心で水鳥の写真を撮っていた。

暫く彼女を眺めていると、彼女はそれに気づいたようで、
振り返り、僕に向って、
”アタシは、水鳥の写真を撮るのが好きなの。”と言って微笑んでみせた。

唇の薄い、笑顔が素敵な女性だった。

彼女は、僕の隣に座り、暫く二人で話をした。

彼女は、巴里の学校に通う学生で、写真家になりたいと言っていた。 
写真の話、外国に行きたい話など、取りとめの無い話を暫くした。

彼女は、急に思い出したように、”水鳥の写真を送るから、
メールアドレスを教えて頂戴。”と言って、また微笑んだ。

僕は、紙切れにアドレスを書いて彼女に渡し、
”素敵な写真を送ってね。”と言って、笑ってみせ、その場を立ち去った。

僕は、そのままシャンゼリゼに足を向けた。

かなり歩いたので、凱旋門の近くのカフェで休む事にした。

このカフェにも、死んだ彼女と何度も来た。。

夏の日だったり、冬の日だったり、季節は違うが、
この場所には、彼女と何度も来た思い出がある。。

僕は、知らない間に、行き交う雑踏に彼女の影を探していた。

ふと彼女を見つけても、よく見ると、全く違う人で、
僕の最愛の人の面影が、雑踏の中に、浮かんでは、消えた。。

凱旋門に夕日がかげるくらいまで、僕は、そのカフェにいたようだ。。

何杯目かのシャンパングラスを空にして、僕は、
彼女を雑踏から探すのを諦めたように、ようやく立ち上がった。。

巴里には、たくさんの美しい思い出が詰まっている。。

だから、今の僕には、一際、巴里にいることは切なかった。。

明日は、仕事でロンドンに行く。

巴里にいても、彼女の幻影を追いかけるだけなので、
少し、それを忘れる為にも自分を忙しくした方が良いだろうと思った。

ロンドンには、ユーロスターと言う電車で行く事になっている。

飛行場に行く時間、飛行場で待たされる時間、
ヒースロー空港についてからロンドン市内に行く時間を考えると、
電車で行ったほうが、よっぽど早いからだ。

僕は、ヨーロッパの大陸鉄道のあの独特の雰囲気が好きだ。。

なんとも言えない、切ない気持ちが掻き立てられるからだ。

あの駅の風景を見ていると、流浪を続ける自分の人生を見ているような気がする。

つかの間の出会いと温もり、そして別れ。。

大陸鉄道の駅には、そんな人々の出会いと別れが凝縮されている気がする。

流浪の人生を続け、つかの間の時間を最愛の彼女と過ごし、
そして別れ、また流浪を続ける。。

自分が異邦人である事を気づかせるけれど、
また僅かの時間の心のふれあい、人の温もりを思い出させてくれる。

僕にとって、駅とはそんな気持ちを起こさせる場所だ。。







青空とせつなさと 2008年08月08日20:00

倫敦での仕事に一区切りをつけ、金曜日のユーロスターに乗って、
巴里に帰ることにした。

倫敦に着いた夜は、雨だった。 
その後は、雨が降ったり、晴れ間が出たりの不安定な天気だった。

僕が今回倫敦に来た理由は、新しいプロジェクトの為の人員の採用だった。

本来だったら、最初の頃の面接は、部下に任せて、
自分は最後の面接をしているのだが、今回は倫敦での採用で、
僕がたまたまこちらにいたことから、僕が最初に彼らに会うことにした。

僕らが、採用広告を出す時には、僕ら自身の名前は出さずに、
架空の小さい会社の名前を使って、プロジェクトの内容だけで募集をかける。

僕らの事は、ある程度業界にしれているので、僕らの名前を出すと、
ただ単に僕らの仲間になりたいだけの理由で、応募をしてくる連中が多いからだ。

だからあえて架空のちっぽけな会社の名前を使う。 
そうすると、プロジェクトの内容に感銘を受けて
挑戦をしたいと言う連中だけが集まってくる。

100通ほど集まった履歴書を眺めて、20名ほど抽出し、
丸2日かけて彼ら全員の面接をした。

面接をすると、中には、僕の事をどっかで聞いて知っていて、
面接に僕が出てきて驚く人もいる。(笑)

面接では、それぞれに彼らの生きる目標を聞き、
その目標の為にどのような計画を立てて、どこまで実現をしているのか、
その人生設計の中で、今回の仕事がどのような意味を持つのかを必ず聞く。

生きる目標のはっきりしていない人間は、
人生における仕事の意味づけも決まっておらず、
結果として中途半端な成果しか残せないと言うのが、僕の考え方だ。

仕事も大事だけれども、仕事は人生の一部でしかない。

だからその一部である仕事が、
自分の人生の目的の中でどのような意味合いを
持っているのかがはっきりしていれば、雇い主の僕は、
彼らの人生の目的が達成できるように仕事を割り振ってやることが出来、
その代わり、彼らに真剣に仕事をしてもらうコミットメントを求める事ができる。

仕事が欲しいだけの人間は、仕事を得る事に全力を傾けるが、
仕事を得た途端に安心をしてしまい、そこから先に力を発揮できない人が多い。

就職の面接で、そんな事を聞くのは、
あまり一般的ではないらしく、大体の人は、
面と食らった顔をするが、理由を説明すると、大体の人は、
笑って納得をして、自分の人生の目標、その目標の実現の為に、
この仕事がどういう意味を持つのか?
この仕事をする事で何を得る事を期待しているのか?
その反対給付として、自分は、
仕事に対して何をコミットする用意があるのか?を話してくれる。

そうやって話をしていくことで、僕は、その人たちの内面を探り出そうとする。 
結局は、仕事は、人間関係だ。 その人を信頼できるか、
その人が僕を信頼できるかが、全ての鍵になる。

一緒にプロジェクトに向っていく以上、僕は、自分の命をかけて彼らを守り、
目的地に連れ行かなければいけない。 
それが、僕のコミットメントだ。

その代わり、彼らは、彼らの命をかけて僕についてきて、
プロジェクトの達成に向けて全ての英知を傾けて欲しい。 
それが、彼らのコミットメントだ。

そして、プロジェクトが達成して全てが終わったときに、
笑って別れられる様に。。。

結局、僕は、その中から3人の候補を選び出した。

この後は、僕の部下2人に、その3人の面接をしてもらう。

僕の下で仕事をしている連中は、
優秀だが、子供のような奴らが多い。(笑)
僕は、彼らを愛情をこめて、“頭の良い5歳児達”と呼び、
自分の子供だと冗談を言っている。

15年連れ添っている僕の秘書が、彼らのお母さん役という訳だ。。(笑)

面接が終わって、僕は、アメリカにいる僕の秘書に電話をかけて、
面接の結果を知らせた。

そして、彼女に、
"ヨーロッパでもう一人子供を作る用意があるか?”と聞いてみた。

彼女は、電話口で笑い始め、“アタシ達は、子沢山だから、
ヨーロッパにもう一人くらい子供ができても大丈夫よ。”と言って、また笑った。。

仕事が終わり、僕は、ユーロスターに乗ってまたパリに戻る。

この日記は、ユーロスターの車内で車窓を眺めながら、書いている。

ここ数日雨だった倫敦も、今日は晴れ間が見えている。

雲の合間から見える青い空を眺めながら、
“あと、どの位こんな青空を見上げる事ができるのだろう?”とふと切なくなった。

白い雲と青い空は、僕を遠い昔の幸せだった時に、連れ帰ってくるような気がする。

そこには、僕と最愛の人との思い出が詰まっており、
彼女と一緒に青空を眺めた頃に想いを馳せる。。

何とも切ない気持ちになって、僕は、目を閉じた。。





倫敦から戻って 2008年08月09日07:22

倫敦での仕事を終え、昼前のユーロスターに乗り巴里に戻ってきた。

部屋に帰って一段落して後で、
友達と夜に食事に行く約束になっていたので、
待ち合わせの時間に合わせて外に出かけた。

途中まで来て、何となくおかしいなと思って時計を見たら、
一時間時間を間違えていた。

しょうがないので、近くのカフェで一時間、時間を潰す事にした。

通りに面したカフェの籐椅子に座り、通りを眺めながらシャンパンを注文した。

何となく、日本語が話したいと思い、マイミクの影ちゃんに電話をした。

影ちゃんとコタピと暫く日本語で話をした。(笑)

影ちゃんのお陰で漸く時間もつぶれ、
僕は予定通りに7時に友達の家で待ち合わせをした。

その後、タクシーに分乗し、Musee De La Marineと言う博物館に出かけた。 
日本の感覚からはちょっとおかしいけれど、
この博物館の中には、高級レストランが入っており、
巴里で一番景色が良いといわれるレストランだ。

雲行きがちょっと怪しかったけれど、折角だったから、
レストランのテラスに出て食事をした。

日が落ちると、漸くエッフェルタワーが青く光り始め、
一時間毎にキラキラとイルミネーションが光る。

何度見ても、美しいなあと思う瞬間だ。

1月の寒いときに、ここに死んだ彼女を連れてきた。

寒いのに彼女は、やせ我慢をして、外に出てエッフェル塔を眺めたものだった。

あの時に二人で撮った写真は、今でも僕の宝物だ。

いつもあの写真を、鞄の中に入れて、
僕が死んだら棺おけの中に入れて貰おうと思っている。

死ぬ直前に、この世の最後に見るものと心に決めているのが、
あの写真だ。。

全部で7人のパーティだったので、賑やかだったけれど、
賑やかであれば、賑やかなほど寂しく思う瞬間がある。

想いは、遠く、あの日まで飛んでいく。。。







週末 2008年08月10日01:03

折角、ヨーロッパに来たのだから、感傷に浸るのは昨日までと決めて、
今日から心機一転、ここでの生活を楽しむ事にした。

土曜日の今日は、朝から美しい青空が広がった。 
それでも気温は、それほど高くなく、イワシ雲でも浮かんでいれば、
まるで9月の陽気かと思うほどだ。

こっちに来てから、ちゃんとアパートの掃除をしていなかったので、
全ての家具を動かして、掃除機をかけた。 
小さいアパートだけれども一時間ほど時間がかかってしまった。(笑)

ベッドシーツやタオル等をまとめて洗濯して、
全てを新しいものに変えた。

ここ1週間くらいは、どうも気持ちが引き気味になっていたが、
僕を守るものは、僕しかいない。 そして、僕が信じるものは、僕しかいない。

だから、僕の気持ちが萎えてしまったら、僕はそれでお終いだ。

だから、無理をしてでも、我慢をしてでも、
自分に嘘をついてでも、立ち上がらないといけない。。

自分の為に、強くあろう。
愛するものの為に、強くあろう。
信じてついてくるものの為に、強くあろう。
自分の信じるものの為に、強くあろう。
自分の夢の為に、強くあろう。

信じるものは、自分だけ。。
頼りになるのは、自分だけ。。







僕が、僕であり続けるために。 2008年08月16日00:53

暫く日記を書いていなかったので、”パリで死んだんじゃないか?”と
心配してメッセージをくれたマイミクさんも何人かいたけれど、
僕は、元気でやっています。(笑)

パリに住んでいる人は、夏の間は、殆どパリを離れて南仏などにでかけてしまう。

地元で人気のレストランやブティック等も
8月中旬から月末にかけて店を閉めてしまう所が多い。

そんなこともあり、僕も、他のパリっ子達と同じように、
パリを離れてノルマンディに出かける事にした。

ノルマンディと言うと、日本では、
第二次世界大戦のノルマンディ上陸作戦の舞台となった
海岸を思い浮かべる人が多いと思うが、ノルマンディは、
フランス北西部の地域の名称で、実に広い地域をカバーしている。

火曜日の昼過ぎに、車に乗り込み、パリの街を後にして、
ハイウェイA13を北西に250キロほど走り続けた。

パリ市外を抜けて暫く高速を走ると、まわりは、あっという間に田園地帯になる。

広大な農地を見ると、フランスが依然として農業大国である事を思い知る。。

途中で天気が悪くなって雨になったりしたが、僕は、ひたすら車を運転し続けた。

やがて高速をおり、フランス北西部の田舎道を車は、走り抜けた。

雨もやんだので、車の幌をおろし、僕の真っ赤なスパイダーは、
フランスの田舎道をただひたすら走り抜けた。。

やがて、海岸線が見えてきて、
僕は、ノルマンディの港町のDeauvilleにたどり着いた。

今夜の宿は、この街に決めた。。

ホテルを見つけ、車を泊め、ひとり夕暮れの海辺の町を彷徨った。。

Deauvilleは、戦後に作られた街で、歴史は浅いが、
南仏のモナコに対抗して作られた街で、海水浴場、カジノ、レストラン、
移動遊園地等で賑わっていた。

まだ日が落ちるには、時間があったので、
僕は、一人で、海岸沿いの街を歩いてみた。 
海岸沿いにあるレストランを見つけ、そこで一人で夕食を食べた。

そして、日が落ちるのを海岸から眺めた。。

翌朝になって、僕は、Deauvilleの街を出て、
Trouville、Honfleur、Etretat、Fecampと海岸線の街を訪れた。

海岸線の田舎道を、僕の真っ赤なスパイダーが走り抜けた。。

ふと、彼女を思い起こす瞬間もあったけれど、これは、僕のためのドライブだ。。

別に彼女を忘れようとはしていないけれど、僕が、
僕であり続けるために、自分の事を考えながら走り続けた。。

僕が、僕であり続けること。。

僕は、僕であり続けないといけない。。

日が暮れる前に、Etretatの街にたどり着いた。

Etretatは、海岸線の絶壁の上にたつ教会が有名な街だ。

僕は、一人で、海岸を歩き、絶壁を上って、教会の中に入った。

一人で席に膝まづき、自分の心の中に語り続けた。

僕が、僕であり続けることの意味について。。

僕が、僕であり続けるには、どうしたら良いかについた。。

暫くして、僕は立ち上がり教会を後にした。

教会を出ると、そこには、断崖絶壁が広がり、
眼下には荒波が広がっていた。

このまま一歩踏み出せば、僕の体は、宙に浮き、
あっという間に、荒波の中に飲み込まれてしまう。。

自分の生と死が、歩幅一歩ほどの距離に存在していた。。

生きるという事は、そういうことなのかもしれないと思った。

生と死は、隣り合わせに存在し、その境界を越えることは、
いともたやすい事なのだ。。

僕は、断崖に座り、色々と考え事をした。。

そして、立ち上がり、車に戻り、次の街を目指した。

僕が、僕であり続けることの意味を問いながら、
僕は、まだノルマンディを走り続けている。

きっと、答えはでないだろう。。

無駄な事だとわかっていても、それでも僕は、走り続け、
この問題と対峙し続けなければいけない。

そう思った







相棒の死  2008年08月18日11:30

僕は、自分らしさを取り戻す為に、ただあてもなくノルマンディを彷徨った。 

あの、強かった時の自分を取り戻す為に。。

ギラギラ光る抜き身の刀のような自分を取り戻す為に。。

僕の赤いスパイダーは、
ノルマンディの田園地帯を稲妻のように走り抜けていった。

あてもない旅は、いつまでも続いた。。

たまには、夜通し走り続けるときもあり、気が向けば、
知らない小さな村で夜を過ごす時もあった。。

そうやって、旅を続けているある日、
僕のニューヨークの事務所から僕の携帯に連絡があった。

僕は、この数ヶ月、中国であるプロジェクトを動かしている。

中国とのビジネスは、一筋縄ではいかない。

こちらは、小さな一企業だが、相手は、
何億という人民を抱える国だ。

僕らが純粋なアメリカ企業だったら、
アメリカ政府の援護射撃も期待できるかもしれないけれど、
僕らは、優等生なアメリカ企業ではなく、
世界中の国々からのはみ出し者の集団だから、
政府のサポートなど期待できるはずがない。

一度、日本の経産省の役人と話をして、
日本の国益の為に、中国とのビジネスは、
かくあるべきと言う提言をしたが、腰抜け役人どもに、
僕と一緒に立ち上がる度胸があるはずもなく、結局、政府は、
僕のプランにのってくる事は無かった。

そうなったら、自分でやるしかない。。

だから国をあてにせず、ありとあらゆる策略を考える事にした。

中国の中にも、自分の国の将来を憂いて、僕の考えに賛同する人たちが少しはいる。

そう言った中国の起業家と共同戦線をはることにして、
現地での調整は、ある中国人の起業家に任せることにした。

僕は、彼と知り合ったばかりだが、その先を見る目と、
勝負をかける度胸が気に入り、僕らの仲間として、
プロジェクトの重要なメンバーになった。

僕らのプロジェクトの中国内部での調整をする為に、
彼は、単身、中国に戻り、必要な下準備をする事になっていた。

予定では、3週間前には彼から連絡があるはずだったのに、
彼から全く連絡がなく、どうなっているのかちょっと気になっていた。。

ニューヨークからの緊急の連絡は、その中国人の彼が、
中国で急死したらしいと言う事を伝えるものだった。

死因を聞いたところ、はっきりしないものの、
どうやら心臓発作だったらしいということだが、詳しい事は、何もわからかった。

ニューヨークからの電話を聞きながら、
僕は、目の前が真っ暗になった。

彼を中国に送ったのは、この僕だ。

アメリカの軍隊には、Leave no one behindと言う鉄則がある。 

決して、だれも置き去りにしてはならないと言う、軍隊の鉄則だ。

Leave no one behindと言うのは、僕が生きていくうえでの鉄則でもある。

僕と心を交わした人たちに対して、それが生きているものでも、
死んでしまったものでも、僕は、仲間を決して見捨てる事はせず、
最後まで仲間としての責任を持つということだ。

それは、僕の仕事の鉄則でもあり、恋愛での鉄則でもあり、
僕と接する全ての人に対する原則として、唯一この45年間貫いている事だ。

だから、僕は、彼の亡骸を中国に引き取りに行き、
無事に彼の家族の元に連れ帰らないといけない。

僕は、ノルマンディでの旅を切り上げ、
明日一番の飛行機でパリから中国に向う事にした。

僕と心を分かち合った仲間を迎えに行く為。。

相棒よ。 

もう少し辛抱していてくれ。 

今から迎えに行くから。。。







今、僕が君の為にできること。 2008年08月20日18:16

訃報を受け取ってから、車を飛ばしてノルマンディからパリまで帰り、
そのまま荷物をまとめてド ゴール空港から中国行きの飛行機に乗り込んだ。

中国入りをして、彼の遺体が安置されている所を確認し、
必要な手続きを取った。

彼の家族も、もうすぐアメリカからやってくることになっていた。

僕は、チャチな鉄製の板にのせられた、変わり果てた姿の友人と再会をした。

僕は、冷たい彼の手を握り、そして、彼に一言、
”すまない。”と詫びた。 そして、”これから一緒に家に帰ろう。”と呟いた。。

全ての責任は、僕にある。

なくなった命にたいしては、償いの仕様が無いが、
少なくとも僕が今やらないといけない事は、
彼を家族の下に帰すことだ。。 そう思った。

暫くして、彼の家族も到着をし、彼と涙の再会をした。

その時の様子は、とてもここに書きしるせうよなものではない。。

再会を果たした家族を、いかに連れて帰るかが、僕の次の目的になった。

色々と障害は、あったけれど、
オリンピックの熱狂と混乱の合間をぬって、
無事に遺体と家族を中国から持ち出すことができた。

全ての段取りをすませた後に、僕は、またとんぼ返りで日本に向う。

僕の体はボロボロだけれども、この老骨に更に鞭を打とう。

僕にできることは、ただそれだけだから。。

君と僕が、語った夢は、君の為に、僕が僕の手で、かたをつける。






帰還 2008年08月21日07:29

僕の仲間とその家族を、色々トラブルはあったけれども、
何とか上手くすり抜けながら、無事、中国からアメリカに連れ帰ることができた。

中国のあの澱んだ灰色の空の下で、48時間ほど走り回ったあと、
カリフォルニアの空港に降り立つと、その空の青さに思わず驚いた。

帰ってきたと言う気持ちで一杯になった。

青い空が眩しかったので、サングラスをかけた。。

気が付いたら、この3日間、一睡もしていなかった。

目の下は、まるで化粧をしたように真っ黒になっていた。

カリフォルニアの空港には、僕のスタッフ達が待ち構えており、
僕は、彼らに後の手配を任せることにした。

僕が、友達にできること、、それは、僕の手で始末をつける事。

だから、これは、僕の手でしなければならない。

明日の飛行機で、またアジアにとんぼ返りをする。

無理を続けているけれど、僕は、まだ闘える。

きっと、これが僕の宿命なのだと思う。

これが、僕の宿命ならば、この身が折れるまで、
宿命に立ち向かっていこうと思う。







Pall Mall 2008年08月23日07:28

友達を無事にカリフォルニアまだ送り届け、
僕は、日本にとんぼ返りで帰ることにした。

懸案の中国でのプロジェクトは、上手く進んでいない。

きっと、この状況で、僕の友達も悩みぬいていたのだろう。

日本政府は役に立たないので、僕らは、
僕らの会社にフランスの皮をかぶせて、
フランス政府を巻き込みながら中国に接近をする事にしている。

フランスと中国は、長い大人の関係を持っており、
フランスの顔をして中国に接近すると、我々の実態がバレルまでに、
相当中国の内部に入り込む事ができる。

僕らは、目的の為であれば、どんな突拍子がないことでもできる。
フランス人のフリをして、フランスの皮を被る事など、朝飯前だ。(笑)

ただ、日本人として悔しいのは、日本政府が、
フランスなどの欧米の政府のようなしたたかさを持っていないことだ。 

ビジネスは、経済戦争であるが故に、
政治問題と深くかかわり、外交の一翼を担う。

特に欧州各国の政府は、ビジネスのシビアな一面を十分理解して、
国益を守る為に、民間を助け、民間を手足に使う。

日本政府には、これは闘いだと言う気概、気迫がないような気がする。

気迫がなければ交渉では勝てない。

気迫は、相手を威圧すると言うことではない。

気迫とは、相手を威圧することなく、心を以って心を打つ事だと思う。

山岡鉄舟の説く無刀流の言う所の心の心境が、
静かな気迫を生むと、僕は、考えている。

別のたとえをすれば、気迫があれば、
それはオーラとなってその人の背後に輝き、
そのオーラが相手を静かに圧倒するようなものだと僕は、思っている。

残念ながら、僕があった日本政府の人間には、
そのような気迫を感じさせる人がいなかった。

だから今回は、フランスを盾に切り込もうと思っている。

ただフランスも、見返りもなしに、
こんな日本人に手を貸してくれるほどお人よしのはずがなく、
虎視眈々と自分の利益を狙っている。。 
だからフランスが、僕らを最後まで守ってくれるわけでもない。

フランスとそう言った微妙な協調関係を保ちながら、
ある絶妙のタイミングを見計らって、
我々だけで一気に中国側の急所に深く入り込んで、
駆け抜けると言うのが、今回の大まかな作戦だ。

神経が擦り切れるようなテンションの中で、
何ヶ月も駆け引きを続けるのは、確かに疲れるけれど、
簡単な事ならとっくに誰かがやっている訳で、
誰もやっていないことに挑戦をすると言う事は、そういう事なのだと思う。

今、直面している問題は、フランス側の地ならしが、
思ったほど進んでいないので、
ちょっとした事をきっかけにフランス側のプランが腰砕けになる可能性がある事だ。

フランス側を固め終わらずに中国側に攻め込むと、
フランス側が腰砕け、その煽りを食って中国側もつぶれる危険性が高い。

常道であれば、まず中国側のアプローチを休止し、
フランス側の地固めを行うのがセオリーだと思う。 
その場合は、当然、スケジュールに影響を与える事になる。

日本に行く飛行機の中で、僕は、どうするかを考え、決める事にする。

大事をとって今は退くか、危険を覚悟で今あえて勝負をかけるか。。。

明日、日記を書く時には、もう僕の気持ちは、決まっているはずだ。

流石に、最近、無理がたたって、かなり体重が落ちたようで、
色んな人に痩せた、痩せたと心配される。 
顔が痩せたとか、お尻が痩せたとか、
人によって痩せた場所が違うのが、笑わせるけど。。(笑)

頭を覚醒させる為に吸う両切りのPall Mallの数も最近増えた。

両切りのPall Mallに濃い目のコーヒー。。 
そして弱気の本心を隠す為の、ちょっとばかりの”空元気”。。(笑)

今の僕に必要なものは、その3つ。。






祭 2008年08月25日07:37

昨日の夕方に日本に着いた。

暑い、暑いと聞いていたので、覚悟して来たのだが、
思った以上に涼しくて、パリの気候とあまり変わらない。

おまけに、雨が降っていたせいもあり、空が暗くて、
ちょっと寂しい気持ちになってしまった。。(笑)

先月日本に来た時に、例の”死にたい。”と手紙を残していた
施設の子供との約束があったので、東京に着くと、
早速その子を施設に迎えに行き、麻布十番祭りを二人で歩いた。

最初は、遠慮してただ歩き回るばかりだったけど、
その子も段々慣れてきたのか、次第に、あれを食べてみたいとか、
あれをやってみたいとか言い出し、二人で楽しい時間を過ごす事ができた。

”おじさん、カキ氷食べても良い?”とその子が聞いた。

僕は頷いて、その子の手を引いて、カキ氷やさんの前に言った。

300円で、プラスティックのカクテルグラスのような容器にカキ氷を山盛りくれて、
その前に並べられた色々なシロップを好きなだけかけることが出来る。。 
そんな昔ながらのカキ氷やさんだった。

その子供は、悩んだ挙句、ブルーハワイとラムネ、
コーラの3色をかけた。 青と、緑と茶色のシロップを上手い具合に
3箇所に分けてカキ氷の山にかけていた。

”ブルーハワイってどんな味?”と僕は聞いてみると、
その子は、少し考えてから、”ラムネの味かな。”と言った。

ちょっと味見をさせてもらったけれど、
確かに緑色のラムネ味と変わらなかったような気がした。

僕的には、ブルーハワイは、ブルーキュリソーの味だと思っていたので、
ちょっと予想外の味がした。。

その子がカキ氷を食べ終わるまで、祭りを歩き回り、
彼女がカキ氷を食べ終わると、また色々な店に入ってみた。

”宝くじをやっても良いか?”とその子が聞くので、
宝くじやさんの前に行き、彼女に何回かくじをひかせた。

残念ながら全部外れだった。

くじやのオヤジさんは、その子をかわいそうに思ったのか、
それまで遊んで貰った景品を抱えていた僕を見て、
”お嬢ちゃん、お父さんは手に荷物が一杯だから、この袋を上げるよ。”と言って、
大きなスティッチの柄のビニール袋をくれて、その他にも、色々細々したものをくれた。

オヤジさんが、僕らを親子と間違えたので、それを聞いて、
僕は、その子に目配せをした。 すると彼女も僕に目配せをして笑っていた。。

その子は、オヤジさんに丁寧にお礼をした。

オヤジさんが、別れ際に、僕に、”可愛いお子さんだね。”と言って
顔をクシャクシャにして笑ってみせた。

僕も笑って、オヤジさんに手を振って見せた。。

雨が降っていた。。

大きな傘を一つさし、
手を繋いで歩く大きな男と小さな女の子の影が、雨の中に揺れた。。

彼女は、歩きながら何度も僕を見上げて微笑んでみせた。

僕も彼女に微笑んで見せた。

こういう愛もある。

恋人同士の愛、夫婦愛、親子愛、家族愛、、愛にも色々あるけれど、
こんな風に、ほのかに思いやる愛もある。

心に傷を負った者同士が、お互いに思いやる愛。。

別に傷を舐め合う訳ではない。

お互いを哀れみあう訳でもない。

ただ静かにお互いを思いやる愛。。


かなり祭りを歩き回ったので、おなかが減ってきた。

”何を食べたい?”と僕が聞くと、彼女は、
大きな声で、”回転寿司!”と言って笑ってみせた。

僕も笑った。

彼女の希望通り、
その子の手を引いて六本木ヒルズの地下にある回転寿司に出かけた。

二人でカウンターに座り、たくさんの皿を取った。

”二人でお皿で六本木ヒルズを立てよう。”と僕が言うと、
その子は、笑って悪戯っぽく頷いた。

結局、二人で30枚ほど寿司を食べ、
30枚のお皿をカウンターに六本木ヒルズの森ビルのように積み上げた。

”お嬢ちゃん、可愛いですね。”とカウンターの板前さんに微笑まれた。

僕らも笑って、板前さんに手を振り返した。

外に出ると、雨足が強くなっていた。

タクシーを捕まえ、僕は、その子を施設まで送って行った。

タクシーの中で、彼女は、僕に丁寧にお礼を言った。

そして、”おじさんは、約束を守って絶対来てくれると思っていたんだ。”と
言って微笑んでみせた。

僕も彼女の頭を撫でて微笑んでみせた。。

タクシーの窓ガラスに溜まった雨粒に六本木のネオンサインがかすんで見えた。。

そんな夜だった。





ニュース 2008年09月02日22:57

■福田退陣ドキュメント…官邸から一斉電話、自民幹部も絶句



最近の日本の政治家には、あまり興味がないけれど、
このニュースには、ちょっと驚いた。

年を取ると、多くの人は、昔を美化して、現在を否定する傾向がある。

良くないことだと思うけれど、ふと気がつくと、
自分も、昔を引き合いに出して現在を否定している時があるので、
僕自身も例外ではない。(苦笑)

例を挙げれば、”昔は良かった”とか、
”昔の人に比べて、今の若者はヤワだ”とか、そう言った考え方だ。

その考え方で福田首相の辞任を考えると、
”昔の政治家には、もっと気骨があったが、
今の政治家は小粒な奴ばかりになった。。”と言う事になるのだろう。

でもその考え方は、正しくないと思う。

なぜならば、美化しているその昔ですらも、
”昔は、もっと良かったのに、今は、なっていない。”と言われていたからだ。 

つまり、そう言った苦言は、昔も今も、
いつの時代にもあったコメントで、昔を美化して今に苦言を呈するのは、
人間の性だと思うからだ。

だから、福田総理をつかまえて、”昔の政治家には、気骨があったが、
今の政治家は、軟弱だ。”とは、言えないと思う。 
彼が、軟弱である事は認めるけれど、別にそれは、
彼が今の政治家だから軟弱なのではなく、きっと彼は、
いつの時代に生まれて政治家になっても、ああいう人なのだっただろうと思う。

昔、日本のテレビの討論会で、多くの若者を捕まえて、
今の若者は軟弱だとコメントしていたコメンテーターが、
同じ討論会に出席していた、
元ゼロ戦のパイロットで撃墜王だった坂井三郎氏に、
”昔の若者と比較して今の若者をどう思いますか?”と質問をした事があった。

その時、坂井氏は、”今の若者は、今の若者はと言いますが、
私が若い頃にも、当時の年配の人々に、お前ら若者はなっていないと、
言われたものであります。”と答えて、
周りの若者の拍手喝采を浴びていた事を思い出した。

あの困難な時代を生き抜いた歴戦のパイロットならではの名言だと思った。

さて、同じ時期に、アメリカでも大統領選挙が行われている。

先週の民主党の党大会に続いて、今日から、共和党の党大会が行われる。

共和党のマケイン候補は、ヒラリー人気にあやかってか、
誰もマークしていなかった女性議員を副大統領候補に任命したが、
彼女の17歳の娘が、実は、妊娠5ヶ月だと言う爆弾発言が飛び出し、物議を醸している。

日本もアメリカも、政局、政治家に関しては、たいしたちがいはない。。(笑)

これを時代のせいにして、人間が小粒になったと嘆くのは間違っていて、
これは、きっと人間の性なのだろうと思うようにしている。

僕が唯一できる事は、”人のふり見て我がふりなおせ。
”の言葉の通り、自分の行動が見苦しくないように常に心がける事くらいだろう。

見苦しくないと言うのは、カッコよく生きるという事ではない。

カッコ悪くても、見苦しくなければ良いのだ。

見苦しいとカッコ悪いは、全く異なる別の概念だ。

要は、他人の目を中心にして考えるか、
自分の目を中心にして考えるかの違いなのだと思う。

恥かしくないよう、自分に忠実に生きると言う事が、
僕の目指す所なのかもしれない。






漢の約束 2008年09月03日14:04

9月になったので、カレンダーを一枚めくった。

9月になったというだけで、秋が近づいて来た感じがする。

これからセントラルパークの近くは、急に秋めいて来る事だろう。

そろそろ、アメリカに帰ろうか。。

パリのアパート窓から外の景色を眺めながら、ふとそう思った。

夏の間、パリのアパートに籠って、次の仕事の作戦を練った。

僕が今取りかかっている仕事は、二つある。

一つは、前に日記に書いた、中国での仕事。

もう一つは、ヨーロッパでの大掛かりな仕事だ。

中国での仕事は、僕の中国人のパートナーが急死した事で、
一度、仕切り直しを余儀なくされた。

このまま突っ込むか、体制を立て直すか、悩みに悩んだが、
結局、僕は、ここは、一度引いて、体制を立て直す事にした。

友達を失った情に流されて拙速をして、失敗でもしたら、
死んでしまったパートナーにあの世で会わせる顔が無い。

彼の為にも、この仕事は、完璧に仕上げなければならない。

だから僕は、カッコ悪さを覚悟して、一旦中国から引き上げ、
フランス側の体制を立て直す事にした。

猪突猛進の僕の性格を知っている周りの人々は、
僕の今回の決断に驚いていたけれど、僕だって、
いつまでも子供ではない。

もう一つの仕事は、ヨーロッパでの大掛かりな仕事で、
僕のクライアントが他の人に任せた仕事だったが、
時間をかけた割には、全く話が進展せず、
ギリギリになって、クライアントは、別の会社との関係を清算し、
僕の所に仕事を依頼して来たものだ。

クライアントが欲しがっているある会社の不良債権を買い取り、
再生をさせるプロジェクトだが、不良債権の割には、
会社の株価が高く、かなり高額のお金を使わないと上手く買収ができないし、
クライアントがその債権を買収するとわかった途端に、
5−6カ所から色々なクレームを受ける事が予測される。

問題になりうる5−6社の会社と、
クライアントがその債権を買収すると気づかれる前に、
ディールをして問題を処理し、
その後ですかさず債権の買収を敢行すると言う、また綱渡りのような計画をたてた。

5−6社の問題点をそれぞれ分析し、どのタイミングで、
どのような方法で、それぞれの会社とディールをして行くかの作戦を練った。

勝算は、ある。 そう思った。

僕は、二つの条件で、この仕事を引き受けると伝えた。

一つは、クライアントの人員を僕が手下として使える事。
二つ目は、6社とのディールが終わるまで、
目的の債権の買収に関しては、一切秘密にして決して口外しないことが、条件だった。

クライアントは、二つの条件を約束したので、
僕は、この仕事を引き受ける事にした。

期限は、1年。 1年で全てを完了させなければならない。

そのクライアントは、従業員が何万人もいる大企業だ。

僕は、早速、クライアントの本社に出向き、
今回僕の手足となって働く事になっているクライアントの人員と会う事にした。

40歳のいかにも大企業に勤めるエリートと言う感じの部長さんが、
”今回は、お世話になります。”と僕に挨拶をした。

僕は、挨拶を済ませ、今回のプロジェクトのプランを説明した。

話を聞き終わると、その部長さんは、
”壮大な計画ですが、面白そうですね。”と言った後で、”ただ、
私が、会社から言われているのは、そんな壮大な計画ではなく、
正直、面食らっています。”と言った。

彼の話を聞くと、会社の上層部からは、
今回のプロジェクトのごく一部を担当すると聞かされていたようだった。

僕は、彼に微笑んで、語りかけた。

”僕は、君の助けがいる。 

だから、助けてくれるのであれば、プロジェクトの全部に関わろうが、
会社から言われた一部分だけに関わろうが、どちらでも構わない。

君が、プロジェクトの全てに関わりたいというのであれば、
僕は、自分の命にかえて君を必ず目的地まで連れて行く。

君が、会社から聞いていた部分だけをやりたいというのであれば、
僕は、その部分を君にお願いして、残りの部分は、自分でやる。

君の判断に関わらず、僕はこのプロジェクトを必ず成し遂げてみせる。

だから、君がどうしたいかは、君に任せる。”

僕は、そう言って、もう一度微笑んで見せた。

彼は、暫く考え込んでいたが、顔を上げて、口を開いた。

”非常にスケールが大きい話で、ハードルが高いですが、
結論から言えば、全部に関わってみたいと思います。

貴方と一緒だったら、できるような気がします。”

彼は、そう言って、僕に微笑んで見せ、握手をした。

チームは、出来た。

僕らは、プランの詳細を検討し、
6社との話し合いを始める時期等の詳細を詰めた。

1社目との話し合いは、9月3日、2社目との話し合いは、
9月24日とスケジュールを詰めて行った。 話し合いが開始されると、それぞれの進展状況を微調整しながら、複数の会社と平行して話を進めて行く。

同時に複数のジグゾーパズルをするような緻密さと忍耐力と体力が要求される。

僕は、丁度10年前、3つの会社と別々のディールを
14日間で平行して交渉した事がある。 
最後の4−5日間は、24時間を3分割し、
それぞれの会社と8時間づつ交渉をして、何とか予定通り、
3つのディールをまとめる事が出来た。 

当然の事ながら、最後の1週間は、殆ど寝ずに働き続けた。

今回は、会社の数は、倍の6社だけれども、
時間は、6ヶ月と余裕があるので、
全てが予定通りに進めば、不可能ではない。

ところが、最初の交渉を始める前日の今日に、
クライアントの社長がとあるインタビューを受け、
我々が狙っている債権の事にうっかり口を滑らせてしまい、
それが記事に乗ってしまった。

僕が出した二つ目の条件は、いとも簡単に破られてしまった訳だ。

これは、6社との交渉に大きな影響を与えてしまうだろう。
相手方が、僕らの本当の目的に気づいてしまったら、
簡単には交渉をまとめる事は出来ない。

下手をすれば、飛んで火にいる夏の虫になってしまう。。


”どうします?”と、不安そうな顔をして、
僕と働く事になった部長さんが聞いて来た。


”このプロジェクトをまとめられなければ、
君の会社の将来は、無いんだ。

だったら、一か八か飛び込んでみるしかないんじゃないか?

相手も僕らの本当の目的が明らかになってしまったのに、
そのまま突っ込んで来るとは思っていないだろう。

そこを狙って一気に目的に辿り着くような方法を考えよう。

僕らは、もう足を一歩踏み出したんだから、
もう後戻りは出来ない訳だし、そうと決まったら、
思う存分暴れてみるのも楽しいんじゃないか?”

と僕は、言って、彼の肩を叩いて、笑ってみせた。


僕と一緒に闘う覚悟を決めた君を失敗させるような事は、決してしない。

僕の命にかえて、僕は君を守ってみせよう。

そして君を必ず約束した目的地に辿り着かせてみせる。

それが、漢の約束だから。








僕が彼女から学んだ事 2008年09月04日11:29


また闘う覚悟を決め、荷物の整理をした。

僕にとって、仕事とは、命をかけてするものだから、
プロジェクトを一つこなす毎に命を削り、体力を使い、神経をすり減らす。

だからプロジェクトを始める前には、覚悟を決め、身の回りの整理をする。

いつ力つきても恥ずかしくないように。

そんな想いを込めて、丁寧にパリのアパートの掃除をした。

死んだ彼女の兄弟から、彼女の妹が、子供を産んだという連絡があった。

自然分娩を予定していたが、破水してからかなりたっても
子供が降りて来ないので、医者は、急遽帝王切開をする事にしたらしい。

無事、子供を取り出す事が出来たが、なんと、
子宮に大きな癌が見つかったらしく、その場で、
癌摘出の緊急手術になったそうだ。

癌を全て摘出する事が出来たのかどうか、
何をどれだけ切除したのか、まだ詳しい事はわからないが、
彼女の姉の話を聞くと、かなり皆、動揺しているようだった。

まだ20代の若い女の子だ。。

昔の彼女の想い出が、オーバーラップして、
僕は何とも言えない気持になった。

彼女の姉の話によると、胎児が大きかったので、
その影に隠れて癌の影が、医者にも見えなかったらしい。

どんな状況に見舞われても、どんなに辛くとも、
人は、最後の最後まで、望みを失わず、生き続けなければならない。 

それが、死んだ彼女が、僕に彼女の生涯を通じて教えてくれた事だ。。

僕の彼女は、高校生の時に、通り魔に襲われて強姦された。

肉体的にも精神的にも傷を負い、彼女は、子供を産めない体になった。

だから僕らは、孤児を養子にする事をいつも話し合っていた。 
自分たちと血がつながっていなくとも、愛を育む事は出来る。

そんな愛のある生活を彼女は夢見ていた。。

そして人を許し、自らの体験を克服しようとしているかのように、
日本の少年院に相当するような施設にボランティアに出かけ、
罪を犯した子供達の更正の為に、体をはって向き合った。

その中には、強姦をして刑務所に入った少年もいた。

どんな時にも、前向きに、
生き抜こうとする彼女の姿勢に、僕は、尊敬の念を抱いた。

自分の恋人だけれども、この人を超える事は決して出来ないと思った。

この人について行こう。

一歩でもこの人に近づく努力をしよと思った。。

あの強靭な精神の持ち主の彼女の妹の事だ。 
きっと、辛い状況でも、前向きに、生き抜いて行く事だろう。

せめて僕が出来る事は、こんな僕でも、死んだ彼女の想いを引き継いで、
遮二無二生き抜く努力を続ける事だろう。

そんな想いをしているのは、自分一人だけではないと、
妹が感じられるように、泥だらけになっても、
ボロボロになっても、最後の最後まで、
望みを捨てずに生き抜く努力を続ける事くらいかもしれない。

そんな想いを胸に、僕は、闘う為に立ち上がる。。







風林火山 2008年09月05日09:37

心が決まれば、僕の動きは、早い。

早速、ヨーロッパからニューヨークを通り過ぎて、シアトルに向う事にした。

シアトルで数日仕事をした後に、ニューヨークに戻り、
そして、翌週にはサンフランシスコで仕事をし、
一度、ロンドンに戻ってから、その足で日本に行く。

9月は、地球を2周ほどすることになりそうだ。

脳漿を搾り出すくらいに、考えに考え抜いて、
確信を抱いたら、後は、風の如く、火の如く、
ただただ目標に向って走り抜けるだけだ。

ここまで来れば、僕の生活はいたって簡単になる。

ただ目標に向って走り続ければよい。

他の事は一切考える必要がないからだ。

目標を信じ、ただそれに向って走り続けるだけ。

心の底から、沸々と闘志が湧いてくる。

誰も僕を止める事はできない。





2008 10 03 Leaving Tokyo


今、成田のラウンジでこれを書いている。

今回もあっという間の5日間だった。

一度、仕事の合間に時間をみつけ、里子達を食事に連れて行った。

”何が食べたい?”と子供たちに聞くと、

”ステーキ!”と口をそろえて笑って見せた。

僕も笑いながら、子供たちを連れてステーキハウスに出かけた。

子供たちとステーキをたらふく食べて、
僕らは、六本木の交差点まで歩いて行った。

”丸いケーキが食べたくないか?”と僕は、
振り返って子供たちに言った。

”丸いケーキは、お誕生日の日に食べるんだよ。”と
子供たちは言って笑った。

それでも、僕は、子供たちを引き連れて、
交差点のケーキ屋さんに行き、バースデイケーキを一つ買った。。
誰の誕生日でもないのに。。


店員さんが、”名前はなんと入れますか?”と聞いたので、
子供たちは、思わず笑い出してしまった。

名前を入れない代わりに、ロウソクをたくさん貰った。

ケーキを抱えて、僕らは車に乗り込み、
築地にある施設に戻っていった。

施設に帰り、キッチンのテーブルに大きな誕生日ケーキを並べ、
子供たちに好きなだけロウソクをつけさせた。

一人の女の子が、”15本つけよう。”と言ったので、
子供たちは、ケーキに15本のロウソクをさした。

”誰の誕生日でもないけれど、一応Happy Birthdayの唄をうたって、
ロウソクを吹き消そう。”と僕が言った。

子供たちは、”Happy Birthday To You"と唄を唄いだした。

そして、”Happy Birthday Dear 15才の自分♪”と唄った。

8-9歳の子供たちは、
15歳になったときの自分達の為に唄を歌っていた。

そして、笑いながらロウソクを吹き消した。。

子供たちとケーキを食べ、僕は、一人施設を後にした。

彼女達が、15歳になる頃には、
僕は、もうこの世にはいないかもしれない。。

そして彼女達が15歳になる頃には、
自分達の力で生き始めているかもしれない。。 
丁度、僕が、15歳から自分の力で生き始めたように。。

彼らの人生が、楽しく、幸せである事を祈った。。

子供たちの笑顔が、そして歌声が、僕の脳裏にもう一度蘇った。

6年後の自分達の誕生日を祝っていた子供たちの笑顔が、
何故か切なく思えた。。

これから日本を発ちます。。





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